出がけのテレビでは、梅雨前線が関東地方まで北上すると言っていた。 鎌倉の古刹で紫陽花を楽しんだ後、ふと海が見たくなってローカル線の駅を降りて歩いた。
海は鉛色で、水平線と空の境界線はとうに曖昧だったが、やはり雨が降ってきた。花柄のワンピースも濡れ、道沿いの古びたサーフショップの軒下で雨宿りをしていた。
久しぶりの平日の休暇。せっかくの休日が台無しだという苛立ちと、ひどい空腹のせいで、私はひどく投げやりな気分になっていた。
目の前の国道134号線は、休日の湘南とは違い、地味な車が先を急いで往来していた。
そこへ、一台の車が近づいてきた。モノトーンの世界を引き裂くような鮮やかな赤。古めかしい、けれど手入れの行き届いた車だった。私の前で止まった車のエンブレムには、ALFA ROMEO – MILANOと刻まれていた。
男が体を助手席側に寄せてドアのハンドルを回すと、かすかに軋みながら窓が下がった。
「どこまで? 困っているなら、近くまで送るよ」
運転席に座る男の、生真面目な表情から努めて平坦な声が聞こえた。 彼、というよりも、車が放つクラシカルな魅力と独特のオイルの匂いに誘われた。行く当てもなかったが、この軒下よりは、彼の車の中の方がましに思えた。
助手席のドアノブを手前に引き、体を滑り込ませてドアを閉める。 手回し式の重い窓を閉めると、私のワンピースの湿気でフロントガラスが白く曇り始めた。
彼は無言でヒーターを回した。窓の曇りが消えるのと引き換えに、車内はサウナのような湿気に包まれる。革とオイルの匂いが混じった独特の熱気。正直に言えば不快だったけれど、これでワンピースが乾くなら悪くない。
「暖かいわね」
私は、彼が求めているであろう言葉を、独り言のように落としてあげた。
「この車、古いけど、こういうときには役に立つんだ」
彼は低く答えると、クラッチペダルを踏み込みギアをローに入れ、再び車を走らせた。 突然大きくなるエンジンの音、背後から響く排気音、ごつごつとした乗り心地。私にはちょっと苦手な車かな、と思った。
ダッシュボードの上には使い古されたロードマップが置いてあった。きっとそこには、彼がこの車と過ごしてきた履歴が刻まれているのだろう。
「お腹がすいた」
沈黙に耐えかねて、私は本音を漏らした。
「丘の上に、この車と同じだけの時を刻んだ落ち着いた店がある。そこでいいかな」
土地勘はないが、坂の上に美味しいカレー屋があったはずだ。
場所を確かめようと外を眺めていると、私が口を開くより先に、彼は無言でハンドルを切り坂を登り始めた。 坂を上がるエンジンの咆哮や路面からの突き上げが一層激しく、私の体を揺さぶった。
彼は年季の入ったレストランのそばに車を止めた。
やっと静寂を取り戻すことができた。
「ありがとう。ここ、知っている気がする」
私は助手席のドアを開けて外に出ると、彼を振り返った。
彼は、自分の役目はこれで終わりなのか、それともこの先も私と同じ時間を過ごすべきなのか、迷うような眼差しを私に投げかけた。
「あなたも来て」
そう声をかけた。 彼は少しだけ逡巡したようだったが、ドアを閉めると車を駐車させるために去っていった。
乾きかけたワンピースがまた雨で湿るのを嫌い、私は店のドアへと急いだ。一番奥の席に座り、彼を待つ。
彼は席に着くなり、この店と自分の愛車の歴史がいかに重なっているかを語り始めた。私は彼の話を遮るように、
「ここのカレー、懐かしいわ」
と言って、メニューも見ずに定番のカレーとシーフードサラダをオーダーした。
運ばれてきたカレーを、私は黙々と食べた。その味は、かつて食べた時と同じ感動を私に与えてくれた。雨に冷やされた身体と空腹に、カレーが心地よく染み渡っていく。空腹が満たされると同時に、先ほどまでの投げやりな気分もどうでもよくなっていくのがわかった。
私は食べ終えると、何も言わずに伝票を手に取りレジへ向かった。少なくとも雨からの避難先を提供してくれた彼への恩返しの意味で、私は自分の分と、コーヒーだけを頼んでいた彼の分までまとめて会計を済ませて外に出た。
追いかけてくる彼。その足取りに、戸惑いが見えた。
さっさと隣の駐車場に停められた車に戻り、彼を待って乗り込んだ。
彼がキーをひねるとエンジンが目覚め、再び無遠慮な振動が私の体を揺らした。
私はこのそばにホテルがあることを知っていた。そして、行ったこともあった。そこのラウンジバーで食後酒を飲みたい気分だった。
私がお酒を飲みたいと言ったら、彼は車を降りて私に付き合うだろうか。
「お酒が飲みたいの。付き合ってくれる?」
と言ってみた。 彼はわずかな間、フロントガラスの向こう、ホテルのある方を眺めていた。
「すぐそこに、ホテルのラウンジバーがある。静かに飲めるはずだ」
彼は大事な愛車を置いて、私に付き合うことを選択したようだ。
私の気まぐれが、彼の誇り高いこだわりを上回ったことに、ささやかな充足感を覚えた。
ホテルのラウンジは静かだった。私はジン・トニックを、彼はバーボンのオン・ザ・ロックを飲んだ。冷えたグラスを傾けながら、窓の外の暗い海を見ていた。
やはり彼は言葉数が少なく、「訳知り顔」で私を観察しているようだった。
二杯目のグラスを空けた時、彼は
「今夜はもう車を運転することができない」
と、部屋を予約するために席を立った。 彼が戻ってきた。
「迷惑でなければ、明日の朝まで一緒にいていいかしら」
翌朝、私は乾いたワンピースを着て、彼が目を覚ます前に部屋を出た。
雨に濡れた、お気に入りの花柄のワンピース。それを乾かすためだけに費やした昨日の時間。
朝のラウンジで熱いコーヒーを一杯だけ喉に流し込み、私はホテルを後にした。
外は眩しいほどの晴天。 気分は最高だった。
バス停まで歩きながら、私はふと思う。
きっと彼は、昨日の私の行動を、何か過去と決別するための厳粛な儀式のように感じていたのだろう。
そして彼は、その立ち会い人としての役割を完璧に演じきったことに、今頃ひそかな満足感を覚えているかもしれない。
そう思うと、少しだけ彼が気の毒になる。
「ごめんなさい、全部ただの気まぐれよ」
乾いたワンピースの裾を翻し、私はやってきたバスに乗り込んだ。
私の夏は、これから始まるのだ。
