ワイパーが、一定の、そして少しばかり不機嫌なリズムでフロントガラスを拭う。
カーラジオは梅雨前線の接近を知らせていた。
国道134号線は、どこまでも続く灰色のグラデーションの中にあった。
海は鉛色で、水平線と空の境界線はとうに曖昧だった。
アルファロメオ1300GTジュニア。通称「段付き」と呼ばれるボンネットの隙間に、細かい雨の粒が吸い込まれては消えていく。
江ノ島を過ぎたあたりで、彼女を見つけた。 道沿いにある、看板の文字がすっかり退色したサーフショップ。その軒下に、彼女は立っていた。 花柄の、ひどく薄い生地のワンピースを着ている。 雨はしとしとと、しかし確実に彼女の肩と胸元を濡らしていた。
僕はエンジンの回転数を合わせながらギアを落とし、ゆっくりと車を寄せた。 パワーウィンドウではない。ハンドルを回して窓を開ける。 車内に、潮の香りと湿った空気が流れ込んできた。
「どこまで? 困っているなら、近くまで送るよ」
僕は努めて平坦な声で言った。 彼女は一瞬、迷うような仕草を見せた。濡れた前髪が額に張り付いている。 だが、僕の車の、少し時代遅れな美しさと僕の顔を交互に見た後、彼女は小さく頷いた。 助手席のドアを開け、彼女が滑り込んでくる。
重みのあるドアが閉まる音。 車内は一気に、彼女の体温と、濡れたワンピースが発する湿った空気で満たされた。 数分もしないうちに、フロントガラスが白く曇り始める。 季節はもうすぐ夏だが、僕はヒーターのスイッチを入れ、デフロスターを効かせた。 暖かい風がガラスの曇りを、ゆっくりと、しかし鮮やかに拭い去っていく。
「暖かいわね」
彼女が初めて口を開いた。 声は、雨の音に混じって消えてしまいそうなほど静かだった。
「この車、古いけど、こういうときには役に立つんだ」
僕はそれだけを言い、再び車を走らせた。 1300ccのエンジンは、低速では少し気まぐれだが、一度回り始めるとANSAに換装されたマフラーは実に機嫌のいい音を奏でる。
彼女はダッシュボードの上に置かれた、使い古された地図を眺めていた。 爪には、雨の色によく似た淡いブルーのネイルが施されている。
「お腹がすいた」
不意に、彼女が呟いた。 独り言のようでもあり、僕へのリクエストのようでもあった。 僕は時計を見なかった。ただ、頭の中でいくつかの選択肢を並べた。
「丘の上に、この車と同じだけの時を刻んだ落ち着いた店がある。そこでいいかな」
彼女は答えず、ただ窓の外を流れる景色を見つめていた。 それが「イエス」であることを、僕は知っていた。
国道を右
に折れ、坂道を登っていく。 バックミラー越しに見る彼女の横顔は、少しだけ、さっきよりも緩んでいた。 シートの革の感触を楽しんでいるようにも、エンジン音のビートに身を委ねているようにも見えた。
会話は、ほとんどなかった。 けれど、沈黙は決して重苦しくはなかった。 窓を打つ小雨と、ヒーターの唸り、そして規則正しいエンジンの鼓動。 それらが完璧なBGMとなって、僕たちの間の奇妙な時間を埋めていた。
坂を登り切ったところに、そのレストランはある。 雨のせいで、客の姿はまばらだった。 店の前で車を止め、僕はサイドブレーキを引いた。 不意に訪れた静寂の中で、彼女は濡れたワンピースの裾を少しだけ整えた。
「ありがとう。ここ、知ってる気がする」
彼女は僕の方を見ずに、ドアノブに手をかけた。 彼女がドアを開けたまま、雨の向こうから僕を呼んだ。
「あなたも来て」
その言葉は、命令のようでもあり、親密な招待のようでもあった。
僕は一瞬だけ躊躇した。だが、雨に濡れるアルファロメオのシートを思うより先に、僕はドアを閉めていた。 レストランの隣にあるスーパーマーケットの駐車場に車を滑り込ませる。1300GTジュニアのエンジンを切ると、車内は急に静まり返り、雨粒が天井を叩く音だけが響いた。
彼女の背中は、さっきまでの弱々しさを脱ぎ捨てていた。軒下で雨に怯えていた女性の面影はない。 店内には、使い込まれたリネンと良質なコーヒーの香りが漂っていた。 1970年代の初頭から、この場所で時を刻んできた店だ。1967年製の僕の車とは、いわば同年代のようなものだ。
彼女は一番奥の席に座った。
「ここのカレー、懐かしいわ」
彼女はメニューも見ずに言った。僕は遅い昼食を済ませたばかりだったので、コーヒーだけをたのんだ。
運ばれてきた
カレーを、彼女は黙々と口に運んだ。 背筋を伸ばし、スプーンを動かすその指先の動きには、ある種のストイックなまでの清潔感があった。 一心不乱に空腹を満たしていくその姿は、 生命の根源的な欲求を誰に遠慮することもなくさらけ出している。
僕はその光景から目を離すことができず、冷めていくコーヒーを啜った。
結局、会話らしい会話は交わされなかった。 食事を終えた彼女は、僕が財布を取り出すよりも早く、伝票を掴んでレジへ向かった。 僕が声をかける隙もなく、彼女はすべての会計を済ませ、雨の中へと出ていった。
駐車場までの道のりも、彼女は振り返らなかった。 雨に濡れるアルファロメオの傍らに、彼女は静かに立っていた。 再び二人が車内に収まると、窓ガラスはまたすぐに白く濁った。
イグニッションキーをひねる。雨の日の常で、スターターがぐずつきながら回り、アイドリングの振動が、僕たちの身体を等しく揺らす。
彼女が正面を見つめたまま、不意に言った。
「お酒が飲みたいの。付き合ってくれる?」
僕は少しの間、雨に濡れたフロントガラスの向こう側を眺めた。
「すぐそこに、ホテルのラウンジバーがある。静かに飲めるはずだ。」
彼女は答えなかった。ただ、膝の上で指を組み、わずかに顎を引いた。
僕は一速にギアを入れ、坂を下った。 坂の途中、ホテルの駐車場にアルファロメオを滑り込ませ、エンジンを止める。 僕たちは雨を避けるようにラウンジへ向かった。
ラウンジの窓から
は、海が見えた。 彼女は冷えたジン・トニックを、僕はバーボンを頼んだ。 氷がグラスに当たる硬質な音だけが、僕たちの間に流れる沈黙を肯定していた。
二杯目のグラスを空けたとき、僕は確信していた。今夜、アルファロメオを動かすことはもうできない。
僕はフロントで一晩の部屋を取りラウンジに戻った。
「迷惑でなければ、明日の朝まで一緒にいていいかしら」
彼女は窓の外を見たまま、静かな声で言った。
その言葉は、懇願ではなく、単なる事実の確認のように聞こえた。 僕は頷き、何も聞かなかった。
エレベーターが静かに上昇し、部屋のドアが開く。 バルコニーからは、暗い海で砕ける白い波が見えた。
翌朝、目が覚めたとき、部屋はもう初夏の予感を含んだ明るい光に満たされていた。 昨夜の雨が嘘のように、窓の外には乾いた青空が広がっている。
隣に、彼女はいなかった。 ベッドのシーツは整えられ、そこにはもう彼女の体温さえ残っていなかった。 昨夜の酒の残り香も、彼女がいた証拠も、何ひとつ。
彼女は何かを清算したかったのだ。重い過去を雨と一緒に洗い流し、新しい自分へ戻るための、厳かな儀式。そのために、僕と、僕の1300GTジュニアが必要だった。それだけのことだ。
僕はその役割を、過不足なく果たせたのだという奇妙な充足感に包まれていた。
シャワーを浴びて、窓から下の道路を見下ろした。 134号線を走る車の音が、遠くでかすかに聞こえる。
僕は1300ccのエンジンをかけるために、鍵を手に取った。
アルファロメオの助手席に残された、わずかな湿り気。 それだけが、昨日の雨と、彼女が実在したことの唯一の証明だった。

