第12話:『過去からの弾丸、僕のクレーナ』

利権の黒幕、フィクサーと中央の政治家との面談を、翌日に控えていた。
深夜の海岸通り裏の事務所。窓の外では、十二月の冷たい雨が降り続いている。
不意に、黒電話のベルが鋭く鳴り響いた。受話器を取ると、相手は中華街の秀英だった。
『……夜分にすまないね。例の組の幹部、裏の男たちがあぶり出して捕らえたよ。詳しい話は、代わるから』

秀英の控えめな声のあと、電話口からくぐもった低音が響いた。中華街の裏社会を束ねるあの重鎮だった。
『……泥水を浚ってみたら、とんだ大物だったぜ。そいつは、二十五年前……あんたの親父さんを車で撥ねた実行犯だよ。そしてそいつは今でも、利権構造の末端で汚れ仕事を仕切っている』
心臓を、冷たい鉄の杭で打ち抜かれたような衝撃だった。『親父を殺した男』。その事実を認識した瞬間、受話器を握る手に、ギリギリと骨が鳴るほどの力が入った。僕は立ち尽くしたまま深く息を吸い込み、燃え盛る感情を氷のような理性で無理やり喉の奥へ呑み込んだ。
「……そうか。逃がさないよう、頼む」
血の滲むような思いで声を絞り出すと、重鎮は『ああ、任せな』と短く応えて電話を切った。過去の殺人と現在の不正が、一人の男の存在を通して完全に線で繋がった。僕は受話器を置くと、すぐさま相沢の携帯電話へ、手筈が整った旨を短く伝言した。

翌日の午後。雨上がりの鈍色の空の下、僕と相沢はホテル・ニューグランドの本館へ足を踏み入れた。
昭和初期から横浜の歴史を見つめ続けてきた、クラシックで重厚な空間。大階段に敷かれたブルーの絨毯を踏みしめながら、スイートルームへと向かった。
マホガニーのドアを叩きドアを開けると、既に室内には、上質な葉巻の香りと、エスプレッソの苦い匂いが漂っていた。アンティークのソファに深く腰を下ろしていたのは、二人の男だ。ひとりは、現在不動産コンサルタント会社の代表として利権を牛耳るフィクサー。二十五年前、秘書として現場で消防車を手配し、隠蔽工作を指揮したあの男だ。その佇まいには権力の頂点に居座り続けた者特有の傲慢さが染み付いている。もうひとりは、高級な仕立てのスーツを着崩した中央の世襲政治家。現在の利権構造の中枢に座る二人だった。
「……随分と待たせてくれたね」
フィクサーの老人が、葉巻の煙をゆっくりと吐き出しながら口を開いた。余裕を装ってはいるが、その目元には、街の包囲網によって数ヶ月間資金繰りと工事を止められている焦燥と苛立ちが、色濃くへばりついていた。
「最近、街で不快な小バエが飛び回っているせいで、少々計画が遅れていてね。君たちが余計な噂を流したり、あちこちで嗅ぎ回ったりしているせいだというじゃないか」
政治家が、テーブルの上にあったジュラルミン製のアタッシュケースの留め金を外し、無造作に蓋を開けた。中には、見事なまでに整然と並べられた一万円札の帯封が詰まっていた。
「これで店を畳んで、街から出て行きたまえ。君の父親が残したガラクタ屋の立ち退き料にしては、破格の金額のはずだ」
札束の壁を前にしても、僕の心拍数は微塵も揺らがなかった。僕はソファに浅く腰掛けると、アタッシュケースを静かに押し返し、代わりにジャケットの内ポケットから取り出した物をテーブルの上に置いた。
親父の真鍮ケースに収められていた、古い裏帳簿とマイクロカセット。そして、相沢が鞄から取り出した、現在のダミー会社を通じた不当な買収と資金洗浄の証拠が綴られた分厚い調査ファイル。
「二十五年前の裏帳簿と、密談の録音テープ。それに、あなたたちが現在進行形で行っている贈収賄と地上げの記録だ」
僕が淡々と告げると、老人は鼻で笑い、葉巻を灰皿に押し付けた。
「……それがどうした? 二十五年前の件が殺人だろうと何だろうと、とっくに時効だ。法的にはただの紙クズに過ぎない。それに、現在の再開発トラブルだって、すべて現場の下請け業者が勝手にやったことだ。我々は全く関与しておらんよ」
「二十五年前、あなたも同じ立場だったはずだ。命じられるまま消防車を手配した、ただの秘書だった」
僕の言葉に、老人の目が一瞬だけ揺れた。長年の傲慢の下に隠れていた何かが、ほんの刹那、顔を覗かせる。
「……ふん、だったら何だ。あの頃の俺も、逆らえば同じように轢き潰される側だった。生き延びるために、こっち側へ回っただけのことだ」
老人はすぐに葉巻をくゆらせ直し、余裕の仮面を被り直した。
政治家も、嘲るように肩をすくめた。「新聞記者の真似事か知らないがね、妄想で我々を脅迫するつもりなら、今すぐ警察を呼ぶぞ」
僕は隣の相沢と無言で頷き合い、長年の強欲と欺瞞が染みついた老獪な顔へと視線を戻した。
相沢は立ち上がり、スイートルームの奥、固く閉ざされたコネクティングルームの扉へと歩み寄った。
ノブが回り、重い扉が開け放たれる。隣室から現れたのは、黒ずくめの男たちだった。彼らに両脇を抱えられ、厚い絨毯の上に無造作に投げ出されたのは、五十代半ばの男。

仕立てのいいスーツに袖を通し、身なりこそ整えられていたが、その顔には、隠しようのない痕跡が刻まれていた。腫れ上がった瞼、切れた唇の端に滲む血の色。中華街の裏社会が振るった容赦のなさを、言葉より雄弁に物語っていた。
初めて顔を合わせるこの男を見た瞬間、僕の中で、黒幇たちのやり方に目を伏せたいような、苦い後味が広がった。だが今、その感傷を許される立場にないことも分かっていた。
政治家が顔をしかめ、フィクサーの老人が不快そうに眉をひそめる。
「……何の真似だ。誰だね、この薄汚い男は」
老人の声には、純粋な嫌悪と戸惑いしかなかった。
這いつくばっていた男が、ゆっくりと顔を上げた。自分は命を張り、手が後ろに回るリスクを背負って汚れ仕事をこなしてきた。だが、目の前に座る利権の中枢の男は、自分の顔すら知らない。完全にトカゲの尻尾として切り捨てられるのだという絶望が、男の瞳の中でどす黒い憎悪へと変わった。この街で生き続ける限り、老人一人を売った報いと、既に自分を取り押さえている黒幇を敵に回す恐怖――どちらが今夜生き延びる道か、答えは最初から決まっていた。
「……知らねえだろうな」
男が血の混じった唾を吐き出し、絨毯を掴んで低い声で唸った。
「俺の顔なんか知らねえだろう。だが、俺はあんたを忘れたことはない。二十五年前の雨の夜――」
「黙れ!」
老人はステッキを床に激しく突き立て、男の言葉を遮った。
「どこで拾ってきた野良犬か知らんが、こんな茶番で私と交渉できると思うな!」
男は老人の怒号を意に介さず、低い声で唸り続けた。
「……親会社の裏口であんたから直接、茶封筒に入った三百万円を受け取った。ライトを消したトラックで、あの目利き屋を轢き殺す手付けだ」
老人の表情が、わずかに強張る。
「先週だってそうだ。あんたは地元の組長に電話をかけ、『元町のテーラーの裏に火をつけろ。邪魔立てする奴は始末しろ』と命じた。……その電話のスピーカーの横で、実行を命じられるために控えていたのが、この俺だよ」
見知らぬ男の口から吐き出されたその言葉に、老人の顔からみるみる血の気が引いていった。誰にも聞かれていないはずの絶対的な密室での指示。それが、名も知らぬ末端のチンピラの耳にまで届き、いま自分の首に巻き付く決定的な証言となって突きつけられている。数々の汚れ仕事に手を染めてきた生き証人なのだ。
自らの築き上げた堅牢な城壁が、足元の泥濘から完全に崩落したことを悟ったのだ。
老人は虚ろな目で這いつくばる男を見下ろし、やがて手元のステッキを取り落とした。深くソファの背に沈み込み、諦念に満ちた、ひび割れた声が漏れる。
「……たかが三百万の端金で雇った野良犬に、足元を掬われるとはな。……そうだ。私の邪魔をする奴は、消すしかなかったのだよ。二十五年前のあの夜も……先週もな」
完璧な静寂が、スイートルームを支配した。
相沢が、ジャケットのポケットから手を出す。その手には、静かにテープが回る小型のマイクロレコーダーが握られていた。
「……いただきました」
相沢の低く冷徹な声が響くと同時だった。スイートルームの重厚なドアが、外側から乱暴に開け放たれた。
鋭い声とともに、十数名の捜査員と検察事務官が一斉になだれ込んでくる。瞬く間に部屋は制圧され、逃げ場を失った政治家が腰を抜かして床へ崩れ落ちた。
「……私は、ただ、生まれた家を継いだだけだ……」誰に向けるでもない呟きが、震える唇から零れ落ちる。縋るような、それでいてどこか安堵したような、矛盾した響きだった。
「贈収賄、および放火教唆などの容疑で同行願います」
捜査員に腕を掴まれ、立ち上がらされるフィクサーの老人。すれ違いざま、老人の濁った瞳が僕を射抜いた。
僕はソファから立つこともなく、氷のような視線で彼を見つめ返した。手錠の冷たい金属音が響き、彼らは廊下へと連行されていく。
相沢はレコーダーを止め、窓際へと歩み寄った。携帯電話を取り出し、どこかへ短い合図を送る。数分後。二十五年の時を越え、巨大な利権構造の闇と世襲議員の腐敗を完全に暴く号外記事が、通信社のネットワークを通じて全国のメディアへと一斉に放たれた。
雨上がりの雲の隙間から、冬の斜光がスイートルームの絨毯に差し込んでいる。僕はデスクの上に残された親父の真鍮ケースを拾い上げ、静かに鞄へ収めた。
終わったのだ。四半世紀もの間、この港の底に澱んでいた黒い塊が、いま完全に洗い流されようとしていた。

机の上には、相沢が書いた今朝の新聞の切り抜きが置かれていた。特大スクープに続く、事件の背景に迫る特集コラムだ。

『利権の暗躍を阻んだ“街の目”――港・中華街・山手を結ぶ見えない包囲網』
見出しが踊るその記事には、告発を裏で決定づけたのが、権力に屈しない横浜の市井の人々と、その強固な連帯であったことが、確かな熱を帯びた筆致で綴られていた。
親父が命を賭けて守ろうとした「街の均衡」。それは、決して一人の力で成し遂げられるものではなかったのだ。あの時、ためらいなく動いてくれた顔ぶれを思い浮かべながら、僕は静かに新聞を閉じた。
ふと視線を上げると、棚の上に並んだ四体のティキが目に入った。
アルファロメオとこの彫像を残してハワイへ行った彼女の声が、耳の奥で蘇る。
『クレーナ(kuleana)――果たすべき責任、自分に課された役割、というような意味らしいの』
四半世紀近く、他人の物と秘密を鑑定し、静かに然るべき場所へ納めることだけを生業にしてきた。だがそれは、親父の死の真相という、この街の底で一番深く沈んだ『澱み』から目を逸らし続けてきた歳月でもあった。
過去と対峙し、あの夜の真相を然るべき場所へ納めること。それが、今の僕に課せられたクレーナだったのだ。
そしてこの先も、この街が持つ確かな力に寄り添い、真贋を見極めながら静かに均衡を守っていく。親父の遺した仕事が、ようやく一つの答えを教えてくれたような気がした。
その時、海岸通り裏の事務所のドアが控えめにノックされた。
現れた冴子は、張り詰めていた糸が切れたような、深い安堵の微笑みを浮かべていた。
「街の再開発計画、正式に白紙撤回されたそうです。……本当に、終わったんですね」
「ああ。……四半世紀分の埃を、ようやく払い落とせた気分だ」
僕はデスクの上から、車のキーを掴み上げた。
「親父の墓に、報告に行こうと思う。……アルファロメオの助手席が空いているんだが」
僕は、冴子の瞳を覗き込むように言った。
「え……私なんかが座っていいのかしら?」
冴子は一瞬戸惑いながら目を瞬かせた。
「四半世紀も放ったらかしにしたんだ。僕一人の仏頂面じゃ、親父に何を言われるか分からない。……一緒に来てくれないか」
冴子はしばらく僕の目を見つめ返し、やがて、小さく、しかし力強く頷いた。

事務所の裏手のガレージで、僕は愛車のキーを回した。ウェーバー製のツインキャブレターが冷えた空気を吸い込み、アルファロメオ1750GTVのエンジンが深く重みのある鼓動を刻み始めた。
丸目四灯のフロントフェイスが、海岸通りの日差しの中へ滑り出した。
ナルディのウッドステアリングを握り、シフトノブをセカンドへと送り込んだ時、ふと左側に視線をやって、不思議な感慨に打たれた。いつもなら買い取った骨董品か、自分の革鞄しか置かれていない助手席に、冴子が座っている。
手に入れた日から今日まで、この車の助手席に自分以外の誰かを乗せたのは、これが初めてのことだった。それは、堅く閉ざしていた僕のパーソナル・スペースに、彼女がごく自然に、そして決定的に入り込んできた証でもあった。
「……良い車ですね。なんだか、息遣いが聞こえてくるみたい」
風を切るエンジン音に負けないよう、冴子が少しだけ声を張って微笑んだ。
「手のかかる旧い車だがね。……悪くない」
僕は前を向いたまま答え、アクセルを踏み込んだ。

冬晴れの澄み切った青空の下、アルファロメオは1750ccの心地よいエキゾーストノートを響かせながら、海沿いの134号線を鎌倉へと駆け抜けていく。
潮風が吹き抜ける、海を見下ろす丘の上の古刹。古い墓石の前にしゃがみ込み、僕はポケットからひとつの小さな金属を取り出した。
先の戦争の直前、親父が燕京楼の先代に託した、古い真鍮の鍵。
長い時を超え、止まっていた時間を動かし、すべての真相へと僕を導いたこの鍵一本だけを、僕は冷たい石の上にそっと手向けた。
(親父。二十五年間の無念を晴らし、街の均衡を何とか守ることができたよ)
隣では、冴子が目を閉じ、静かに手を合わせている。
吹き抜ける風が、僕たちの髪を揺らした。これから先も、この横浜の街には様々な思惑が持ち込まれ、光と影が交錯し続けるだろう。だが、その時はまた、この確かな目利きで真贋を見極め、静かに然るべき場所へ納めるだけだ。
冬の始まりの穏やかな海が、どこまでも眩しく輝いていた。
(了)