第2話:『中華街の裏路地、青い磁器の記憶』

彼女が残したアルファロメオ1750GTVと四体のティキ。
事務所の棚には、彼女が置いていったティキが、今も並んだままだ。埃を払うたび、ふと彼女の声が耳の奥で蘇る。
「クレーナ(kuleana)――果たすべき責任、自分に課された役割、というような意味らしいの」
海の神を彫った古老にも、彼にも、そして彼女自身にも、それぞれのクレーナがあったのだと彼女は言っていた。
では、僕のクレーナとは何だろう。
四半世紀近く、他人の物と秘密を鑑定し、静かに然るべき場所へ納めることだけを生業にしてきた。だが、それは僕自身の責任から目を逸らし続けてきた歳月でもあったのではないか。
答えの出ない問いを、僕はいつものように棚の奥へ押し戻した。

1750GTV。
古い車だ。僕は、古くからの知り合いのやっている本牧の整備工場に預けて、最低限の点検整備を頼むことにした。
引き渡しの前に車内を改めた。

ノースショアへ向かった彼女の手によって磨き抜かれたダッシュボードには、埃ひとつ残っていない。だが、グローブボックスの奥、革のシボの隙間に、一箱の古びた紙マッチが挟まっているのを見つけた。
朱色の地に、剥げかけた金の箔押し文字。『燕京楼』。

25年前、大スクープの原稿を上層部に握り潰され、新聞社に辞表を叩きつけた雨の夜を思い出す。行き場を失い、濡れ鼠になって辿り着いた中華街の裏路地で、温かい粥を出してくれたのが『燕京楼』の女主人、張秀英(チャン・シュウエイ)だった。
「親父さんがあんな事故で急に逝っちまって、そのうえ会社まで辞めることになって・・・新聞記者をやめたって、目利きと人の裏を読む耳は残る。父親が残したあの海岸通り裏の事務所で、買い取り屋でも始めたらどうだい」
そう言って僕の背中を押したのも彼女だ。父の代からの縁であり、僕にとっては街の重みそのもののような存在だった。

「久しぶりに秀英の顔を見に行くか。」

タクシーを拾い、中華街の市場通りから外れた暗い路地へと向かった。
夕刻の『燕京楼』は、いつもならスープを引く香ばしい匂いが漂っているはずだが、今夜は不自然なほど静まり返っていた。暖簾をくぐると、奥のテーブルで冷めたプーアル茶の湯呑みを前に、秀英がポツンと座っていた。
「……なんだい、急に」
強がりを言おうとする口元とは裏腹に、彼女の顔には隠しきれない疲労と諦念が張り付いていた。目元の深い皺、力なく落された肩。
その姿は、25年前、すべてを失って打ちひしがれていた僕自身の影と完璧に重なっていた。僕が黙って向かいの席に腰を下ろすと、彼女は短く息を吐き、静かに事情を語り始めた。
半年前、店の資金繰りの穴埋めのために組んだ香港系ファンドとの融資契約。それが巧妙に組まれた罠だったこと。期日までに一括返済できなければ、店の土地と建物の権利が破格で競売にかけられること。返済期日はあと一週間。
ファンドの裏で糸を引いているのは、横浜の不動産領域で強引な手口を繰り返し、成り上がってきた老華僑の男・陳(チェン)だった。
陳は以前にも店を訪れ、神棚の壺を譲ってくれと秀英に頼んだことがあったが、それを断っていた。
その陳が今日再び店を訪ねてきて、「神棚の壺を渡してくれたら、返済期限を延ばしてやってもいいぞ」と言い残したのだ。
「父親がくれぐれも大事にしろと残してくれた壺も、あんたのお父さんも通ってくれたこの店を、あんな奴らに渡すわけにはいかない……」
秀英が震える手でテーブルの上に置いたのは、店の神棚の横にずっと置かれていた、手のひら大の青磁の小壺だった。釉薬が少し欠け、素朴な造形をしている。僕はそれを手にとり、店のランプにかざした。
「……清朝末期の民窯だ。骨董的な市場価値は数十万、高く叩いても百万円というところだろう。店の権利に見合う代物じゃない」

だが、ただの民窯に陳がそこまで執着する理由が腑に落ちなかった。僕はその壺を慎重に包み、事務所へ持ち帰って詳しく鑑定することにした。
デスクライトの下、拡大鏡を取り出して壺の側面、唐草文様の陰になった目立たぬ部分を注視する。そこには、釉薬の下に極めて細く、漢字で「海内存知己」と刻まれていた。
唐代の詩人・王勃の有名な一節――『海内存知己、天涯若比隣(天の涯に離れていても、心に通わせる友がいる)』の前半部分だ。
単体ではただの筋の良い民窯の古壺だ。もし『天涯若比隣』と刻まれたもう一つが存在し、それが揃えば、ただの民窯の壺が『物語を持つ美術品』に化ける可能性がある。

中華街の裏路地に、間口一間ほどの小さな骨董店がある。硝子ケースの中で埃をかぶった翡翠や印材を眺めながら、僕は店の奥に座る老人に、写真の写しを差し出した。
老人は老眼鏡を額まで押し上げ、拡大鏡越しにしばらくそれを睨んでいたが、やがて隅の文字に指を止めた。
「これは……一年ほど前にも、同じような写真を持ってきた男がいたな」
その男の風体を尋ねると、陳の特徴とぴたりと符合した。
老人はさらに、昭和初期に上海から横浜へ逃れてきた二人の華僑が、義兄弟の契りとして対の青磁を分かち合ったという伝承を語り、目の前の写真は、その片割れではないかと見立てたのだという。
「気になって古い文献をひっくり返してみたんだがね。こいつはただの民窯じゃない。戦前の上海で、青幇(チンパン)のトップが愛蔵していたと『幻の目録』に記されている品だ。動乱の中で行方不明になっていたが……もし対で揃って本物だと証明されれば、大陸の富裕層が数千万出しても欲しがる代物だよ」

さらに僕は記者時代のつてを辿り、横浜華僑の歴史を記した未公開の文献を入手した。黄ばんだページの中に、香港を拠点に貿易で財を成した陳の父親が、戦乱のさなか酒楼を営む男に助けられ、命からがら日本に逃れたという記録を見つけた。

陳の手元には、父の遺品として後半の「天涯若比隣」と刻まれた片割れの壺が今も厳重に保管されているはずだ。

陳は壺の片割れが『燕京楼』にあることを突き止め、その壺の入手を画策した。
だが、金に物を言わせた買い取りを拒絶されるや、彼は強引な地上げ屋のやり口に切り替えた。罠の融資契約を仕掛け、「土地を失いたくなければ壺を渡せ」と追い詰める手段に出たのだろう。

海岸通りの「スカンジア」2階。重厚な木彫りのインテリアとほの暗い照明が包む店内で、僕は窓際の席に座り、冷えたアクアビットのグラスに手を添えていた。向かいに座る陳は、手下を店外に待たせ、不機嫌そうにグラスを揺らしている。
「回りくどい呼び出し方をするな。あの女から壺を預かってきたのか?」
僕は答えず、アクアビットを静かに一口含み、ポケットから一枚の書類と、写真の写しをテーブルに滑らせた。

陳は視線だけを落としてそれを一瞥すると、押し黙った。
「あなたは強引な地上げで事業を広げてきた。だが今回は、相手を見誤ったな」
陳の目が険しく光る。僕は言葉を継いだ。
「亡き父親の命の恩人の娘を罠にかけ、形見を奪う。……父親同士が交わした義兄弟の契りを、実の息子が裏切るというわけだ」
「青くさい説教を聞きに来たわけじゃない」
陳が鼻で笑う。
「親父たちのノスタルジーで飯が食えるか。壺は壺だ。俺には数千万の価値があるというだけのことだ」
「説教じゃない。今、あなたが大陸のファンドと進めているビジネスの話をしている。あちらのトップは、熱狂的な青磁器のコレクターらしいな。この対の壺は、そのディールをまとめるための強力な手土産というわけだ」
僕は陳の目を見据えた。
「だが、恩人の娘を罠にかけて強奪した、泥に塗れた壺だと知れたら、面子を重んじる大陸側はどう思うかな」
陳はグラスに伸ばしかけた手を一瞬止めたが、すぐに口元を歪めてみせた。
「……馬鹿馬鹿しい。誰がそんな出処を気にするものか。大陸の連中だって、喉から手が出るほど欲しい代物を前にして、道徳なんて振りかざしはしないさ」
「彼ら自身は気にしないかもしれない。だが、この書類が横浜華僑総会の重鎮たちの手に渡ったらどうなる? 同胞を裏切ったあなただけじゃない。事情を知りながらその壺を受け取った大陸側に対しても、日本の華僑ネットワーク全体が『面子を潰された』として制裁に動く」
陳の顔から、余裕の笑みが消えた。
「僕の元職を知っているはずだ。事実を届けるべき人間に届けることにかけては、多少の心得がある。たかが数千万の壺のために、総会からのボイコットというリスクを抱え込むほど、大陸側も愚かではないはずだ」
スカンジアの静寂の中に、窓を叩く雨音だけが響く。陳は僕の目を凝視し、そこに一切のブラフがないことを悟ると、苦々しそうに顔を歪めた。自らのビジネスの急所、そして大陸側が最も恐れる「面子と信用の失墜」という現実を完全に突きつけられたのだ。陳は沈黙の末、グラスに残った酒を煽り、重い吐息をついた。
「……融資の契約書は不備があったとして破棄させる。適正な金利で借り換えの手続きをとらせよう」
陳は背を向け、雨の海岸通りへと消えていった。

数日後の昼下がり。休業日の『燕京楼』。不当な契約は撤回され、店と壺は守られた。落ち着いた装いの秀英は何も言わず、湯気の立つ白粥の鉢と小皿をテーブルに置いた。
「礼金なんて言われても受け取らないだろ。粥くらいしか出せないよ」
「これで十分だ」
匙をすくう。塩気の利いた滋味深い味が、喉を通り抜けていく。25年前、すべてを失った夜に食べたあの味と何も変わっていない。
食事が終わると、秀英は厨房の奥から古びた木箱を持ち出してきた。
「これは、父の遺物なんだけど、むかし知り合いから預かった物だと言っていた。中に何が入っているのか開け方も判らないし、せめてものお礼に、あんたに鑑定をお願いするよ」

それは漆黒の漆に綺麗な螺鈿が施された、機関盒(きかんこう)と呼ばれる中国の古いからくり箱のようだった。持ち上げると、箱の奥からカタリと小さな金属が跳ねるような、かすかな音が聞こえた。
「わかった、預かるよ。鑑定料はまた次回の白粥代というところだな」
夕刻、整備を終えて本牧から届いたばかりのアルファロメオ1750GTVが、雨上がりの街灯に濡れてオフィス下の路地に凛と佇んでいた。
齢を重ねてはいるが、気品をたたえたそのフォルムは、どこか毅然とした秀英の佇まいを思い出させた。