「……どうする気だ」
相沢の問いかけに、僕は答えの代わりに手帳をめくり、デスクの黒電話の受話器を取り上げた。ダイヤルを回したのは、福富町の雑居ビルの一室だ。かつて彼が持ち込んだヤバい筋の骨董品の『真贋』を正確に見抜き、彼が泥沼のトラブルに巻き込まれるのを未然に防いでやったことで、こちらに貸しのある情報屋だった。
相沢がデスクの向こうで息を詰め、僕の手元を凝視している。
呼び出し音が四回鳴ったところで、受話器の向こうから、重い煙草のヤニがこびりついたようなしわがれ声が返ってきた。
『……どちらさんだ』
「僕だ。海岸通り裏の」
わずかな沈黙のあと、男が小さく鼻を鳴らした。
『珍しいな。あんたが直電なんて。何の用だ』
「頼みがある。街の底に、少し煙を燻べてほしい」
僕は相沢と視線を合わせながら、淡々と告げた。
「二十五年前の親父の事故死、実はあれは殺人事件だった。しかも、本牧再開発の利権に絡んでの事だった。……その事実を、港の荷役や裏通りの雀荘、市役所の出入りの連中の耳元へ、とにかくこの街中にばら撒いてほしい」
受話器の向こうで、息を呑む気配がした。
『……マジかよ。他でもない世話になったあんたの頼みだ、協力はするが……厄介な火遊びだな。ちょっと協力費は弾んでくれよ』
「わかった。頼んだぞ」
僕は短く応え、受話器を置いた。
相沢が怪訝そうに眉をひそめ、身を乗り出してきた。
「おい……なぜそんな噂を流す? 相手を警戒させて、証拠隠滅に走らせるだけじゃないのか」
「横浜という街は、水路と坂道で複雑に入り組んでいるようでいて、地下の澱みはすべて一つに繋がっている。噂を流せば、水路が乱れ、必ず波紋が生じる」
僕は父のノートを静かに閉じ、相沢の顔を見据えた。
「お前は、社内の圧力をかわしながら、記事の版を極秘裏に組み上げてくれ。他社や週刊誌の信頼できる記者にも声をかけ、いざという時に一斉に火を噴く態勢を整えるんだ。表のメディアはお前に任せる」
相沢の双眸に、鋭い決意が宿った。
「分かった。東京の上層部にもデスクにも絶対に悟らせない。いつでも打てる決定打を用意して待ってる」
相沢は取材ファイルをしっかりと鞄に収めると、力強い足取りで事務所を後にした。
街の波紋は、すぐさま目に見える形となって動き出した。
三日後、元町仲通りの老舗テーラーのマスターが、血相を変えて事務所へ飛び込んできた。
「お父さんの件は本当かい」
と息を詰めるマスターに真実を告げると、彼は利権に絡んでいると噂のある会社から持ち込まれていた不当な買収図面をデスクに叩きつけた。
「お父さんには昔、何度も店を救ってもらった恩がある。商店会で緊急の理事会を開いて、全員で手付金一円たりとも受け取らない防衛ラインを敷くよ。元町をあの悪党どもに渡してたまるかい」
元町の商業地が一枚岩となって地上げを撥ねつける一方、山手の丘では、別の静かな報復が動き出していた。
蔦の絡まるクラシックな洋館で、ウィルはパイプの煙をくゆらせながら僕を迎えた。古びた暖炉の前に立った老紳士の碧い瞳には、研ぎ澄まされた冷たい光が宿っていた。
「……噂を聞いたよ。君のお父さんを手にかけた連中の正体をね」
ウィルは低く、だが骨太な声で告げた。
「半世紀前、私の家族の帰国を阻み、この神聖な邸宅を密談の場として土足で汚したあの悪しき血脈が、今も姿を変えてこの街を食い物にしている。……私の奪われた人生のツケを、奴らに払わせる時が来たようだ」
ウィルは、古くからの山手居留外国人たちが世代を超えて維持してきた強固なコミュニティを通じ、欧州の金融筋や外交ネットワークへ個人名義の警告レターを一斉に放った。かつて自らを縛り付けた国境という名の壁を、今度は敵の海外資金ルートへ立ちはだかる分厚い障壁へと変えるために。
港の現場でも、見えない兵糧攻めが始まった。本牧の自宅で一人静かに暮らすレイを訪ね、事件の全容を打ち明けると、彼は静かにバーボンのグラスを傾けた。それから程なくして、本牧埠頭の米軍関係の荷役業務から、利権構造の末端企業がことごとく排除された。ジャズバーの常連だった馴染みの第836輸送大隊の退役米軍将校が、司令部へ一本のレポートを上げてくれたようだった。
関内では坂口が動いた。事務所で相沢の資料に目を通すなり、不正通関の急所を一目で見抜いた元税関員は、手帳に鉛筆を走らせてニヤリと笑った。
「本牧の保税地域を仕切ってる骨のある後輩に、特大の密輸のタレコミを流してやる。奴らの貨物は片っ端から抜き打ち臨検だ。倉庫から一歩も出せなくしてやるさ」
そして、最も深く重い揺さぶりは、中華街の奥座敷で用意されていた。
かつて僕が彼女の店の危機を救った一件以来、秀英は亡き父のツテを手繰り、中華街の奥深くに独自の強固な足場とネットワークを着実に築き上げていた。

その彼女が引き合わせてくれたのは、中華街の経済と裏社会をそれぞれ束ねる二人の重鎮だった。
円卓の上座に座る経済界の長老が、中国茶の湯気の向こうから重々しく口を開いた。
「再開発事業に関わる資材調達だ。今では中国からの輸入部材が多くを占めている。福建や台湾のネットワークを通じ、利権側の建材商社への供給を一時的にストップさせた。契約見直しと価格交渉という名目で、工期を徹底的に遅らせる」
続いて、隣に座る鋭い眼光をたたえた裏社会の重鎮が、低く濁った声で継いだ。
「地元の組の連中も、資金源を絶たれて随分と浮き足立っている。……今、現役で再開発の汚れ仕事を一手に引き受けている『組の幹部』をあぶり出しているところだ。そいつの口を割らせれば、上へ繋がる面白い手土産になるはずだ」
裏社会の重鎮の男が、そこで言葉を区切り、ゆっくりと茶杯を置いた。
「……秀英が請け合った話だ。それに、最近の再開発のやり口は、俺たちのシマにも平気で土足で踏み込んで来やがるんでね。目障りな連中に、ここらで中華街(うち)のルールを教えてやるのも悪くねえ。安く扱う気はねえが、ただじゃあ動けねえ理由もある」
男の視線が、隣に座る秀英へ一瞬だけ流れた。
「もしあんたが土壇場で腰を引くようなことがありゃ、秀英の顔に泥を塗ることになる。……この街で、小秀(シャオシュウ)がどれだけの信用を積み上げてきたか、知らねえわけじゃあるまい」
秀英の背筋が、わずかに強張るのが分かった。何かを言いかけ、しかし言葉を飲み込む。
僕は男の目を見据えたまま、静かに口を開いた。
「秀英さんに恥をかかせるつもりはない。……途中で降りるくらいなら、最初からここへは来ていない」
しばらくの沈黙のあと、男はふっと口元を緩めた。
「……その目を見りゃ、十分だ」
秀英が小さく息を吐き出すのが分かった。彼女は何も言わず、僕の茶杯にそっと新しい茶を注ぎ足した。
事務所へ戻ると、ドアの前に冴子が立っていた。
「あの……街で噂を聞きました」
冴子の瞳には、隠しきれない憂いと案じる色が滲んでいた。父の死の真相と、いま動いている事態を短く伝えると、彼女は胸元で静かに指を組み、僕をまっすぐに見つめた。
「山手カトリックのシスターのネットワークや福祉作業所の方たちに、街の見守りをお願いしました。街のみんなが、あなたを守る目になります」
彼女の凛とした眼差しと、その奥にあるひたむきな想いが、張り詰めていた僕の胸の奥を静かにほどいていくのを感じた。
「……どんな腕利きの用心棒より、信頼できる『目』だ。心強いよ、冴子さん」
僕は彼女の視線を受け止めながら言葉を返した。冴子はふっと緊張を解き、小さく微笑んだ。
元町、山手、本牧、関内、中華街、そして教会。かつて父が誠実に結んだ街の糸が、いまや全方位から、奴らの巨大な利権構造を、じわじわと包囲する網となっていた。
それから、晩秋から初冬にかけての一月余り。街の底流に生じた多くの波紋により、真綿で首を絞めるような静かな兵糧攻めが続いた。
その代償も、決して無傷ではなかった。
ある夜、元町のテーラーの店先が何者かに放火され、先代から受け継いだ裁ち鋏と反物の一部を焼いた。マスターは気丈に「この程度で音を上げるかい」と笑ってみせたが、僕はその一報に、包囲網の裏で確かに支払われている代償を思い知らされた。
新聞にはまだ一行の記事も出ていない。だが、各所で手足を縛られた利権の歯車は、確実に軋みを上げていた。彼らからは見えない敵に対する焦燥と苛立ちが限界まで蓄積していた。
十二月の冷たい雨が降る夜。事務所のドアが開き、コートを濡らした相沢が入ってきた。その手には、完全に版が組み上がったゲラ刷りの束が握られていた。
「準備は完全に整った」
相沢はデスクの上にゲラを置き、低く告げた。
「他社の応援部隊も、検察の特捜部と県警捜査二課への情報提供も、すべて手はずはついた。……だが、今ここで一方的に記事を放っても、東京の本丸は『現場の独断だ』とトカゲの尻尾を切って逃げ隠れする可能性がある。どうやって奴らを一網打尽にする?」
僕はデスクの引き出しから、父の真鍮ケースに収められていたノートとマイクロカセットを取り出した。
親父の遺した証拠と、相沢の執念の調査記録。弾は揃った。だが……胸の奥底には、どうしても拭いきれない焦燥が沈んでいた。
二十五年前の殺人はすでに時効だ。過去の証拠を突きつけても、海千山千の奴らは必ず『現場の末端業者が勝手にやったことだ。我々は知らない』とシラを切るだろう。本丸を引きずり下ろすには、奴らの首根っこを直接押さえ込む、決定的な何かが足りないのだ。
だが、これ以上待てば、包囲網の綻びから敵が逃げ出してしまう。
時効の壁と証拠の薄さを逆手に取り、過去の亡霊を使って奴らの余裕を剥ぎ取る。パニックに陥らせ、自ら現在のボロを出させるための罠を張るしかない。
僕は黒電話の受話器を取り、手帳に記された不動産コンサルタント代表――二十五年前のフィクサーの元秘書の直通番号を見つめた。
「今から奴に連絡を入れるぞ、相沢。『二十五年前の真実と、現在の再開発について、直接話し合う必要があるんじゃないか』とな」
