第9話:『子安の引き潮、父の便箋』

第一京浜を北へ流す。朝の鈍色(にびいろ)の光が、フロントガラスの隅に薄く張りついていた。
神奈川新町を過ぎ、入江橋の手前で細い脇道へ折れる。路面のアスファルトは次第にひび割れ、潮と重油の混ざり合った湿った空気が、三角窓のわずかな隙間から車内へ滑り込んできた。
運河沿いの行き止まりにアルファロメオを滑り込ませ、エンジンを止める。
遠くを走る京浜急行の単調な継ぎ目音と、波に揺れる木造船の軋む音だけが残された。
ドアを開けて外に出る。
ちょうど引き潮の時刻だった。干潟のように露出した運河の底から、剥き出しになった泥と貝殻の匂いが立ち上っている。水上にせり出すようにして立ち並ぶ木造の舟屋群は、昭和の記憶をそのまま水面に留めたように、黒ずんだ板壁を寄せ合っていた。
足元に敷かれた古い枕木の小道を歩きながら、胸の奥に淡い既視感が広がる。
初めて訪れたはずの場所なのに、泥の混ざった潮風の匂い、軋む木杭の擦れ合う音、頭上を覆う錆びたトタン屋根の影――そのすべてが、記憶の奥深くに眠っていた懐かしい情景の輪郭を、静かに呼び覚ましていた。

岸壁沿いの傾いだ軒先に、潮風に晒されて文字の掠れた木看板がぶら下がっている。
――釣船・舟宿 大黒屋。
父の手帳の隅に、消え入りそうな細い万年筆の文字で記されていた屋号。
その看板の歪な墨文字を目にした瞬間、遠い昔、まだ父の腰の高さほどしかなかった頃、大きな掌に引かれてこの板敷きを歩いたかすかな光景が、朝の霞の向こうにふっと浮かび上がっては消えた。
ポケットの中のオールド・ヘドンの木製ルアーを指先で確かめ、引き戸に手をかける。
戸を開けると、錆びた真鍮の鈴が頼りない音を立てた。
薄暗い土間には、使い込まれた和竿や竹製のタモ網、重りの詰まった木箱が所狭しと並んでいる。タールと煙草の煙が染みついた空気の奥で、土間に置かれた低い腰掛けに座り、黙々と刺し網のほころびを繕っている老人がいた。
深く刻まれた額の皺、日に焼けて塩を吹いたような頑固そうな顎の線。七十をとうに越えているはずだが、網を手繰る指先には一切の迷いがない。
僕が土間に落ちた自分の影に視線を落とすと、老人は手を止めず、網の目を数えながら低く言った。
「船なら今日は出ねえよ。潮が引きすぎてて、昼過ぎまで出せねえ」
「船を借りに来たんじゃない」
僕は土間へゆっくりと一歩踏み入れ、ポケットからあの赤いプラグを取り出した。掌に乗せ、老人の手元へ静かに差し出す。
「このあたりに詳しい人に、少し聞きたいことがあってね。……父の遺品の手帳に、この舟宿の名前が残されていたんだ。偶然手に入れたこの古いルアーを眺めていたら、昔の光景がふと繋がってね。二十五年ほど前の事だが、僕の父――戸張という男をご存じないだろうか」
老人の手が、ぴたりと止まった。
視線がゆっくりと刺し網から離れ、僕の掌にある傷だらけのウッドプラグへと移る。白濁しかけた鋭い双眸が、プラグの木肌をじっと見つめた。それから、ゆっくりと顔を上げ、僕の輪郭、目元、肩の線へと視線を這わせる。
土間の空気が、潮の引く音とともに静まり返った。
老人は煙草入れからハイライトを一本引き抜き、使い古されたマッチを擦った。立ち上る紫煙の向こうから、かすかにかすれた声が漏れる。
「……ヘドンのラッキー13だな」
老人は短く煙を吐き出すと、ふっと口元に苦い笑みを浮かべた。
「親父さんも、昔、釣りを始めた頃は形から入る口でな。道具ばかり一丁前の舶来品を抱えて、ここへやってきたもんさ。……来るなら、警察でも新聞社の連中でもなく、あんただと思っていたよ。あの時のちっこい坊っちゃんが、ずいぶん立派な面構えになりやがって」
煙草の灰が、土間の踏み固められた土の上にぽとりと落ちた。幼い頃の記憶の温もりが、目の前の老人の声とタールの匂いによって、確かな手触りとなって胸に落ちてきた。
「……座んな」
老人は手元の刺し網を脇へ退けると、板の間に置かれた古い丸椅子を顎でしゃくった。
腰を下ろすと、運河の水底から立ち上る冷え冷えとした湿気が、ズボンの裾をかすめる。
老人は煙草を深く吸い込み、細い煙を土間の薄暗がりへ吐き出した。
「清次(せいじ)だ。……親父さんには昔、独立したばかりの頃に金と仕事の両方で救われてな。それ以来の付き合いだった。出会った頃は二人でよく釣りにも出かけたもんだ。だが、あの事件の前の二ヶ月間は違った。あんときは一度も釣り糸を垂れなかった。急に真新しい道具箱を抱えてここへ来ては、朝から晩まで船を出して、沖の波間に揺られながら一人で考え込んでた」
「……何を考えていたんです」
「二十五年前の秋口だ」
清次は煙草を指に挟んだまま、遠く濁った目を運河の水面へ向けた。
「親父さんの口数が、目に見えて減っていった。沖から戻っても、船板の上でじっと海を見つめたまま動かねえ。『息子が危ない橋を渡りかけている』と、一度だけぽつりと言ったきりだった。新聞社の若い記者が一人で抱え込めるような相手じゃない、東京の奥のほうまで根が張った底なしのヤマだと」
清次は吸い殻を錆びた空き缶に押し込み、燻る煙を見つめた。
「親父さんは……坊っちゃん、すまねぇ、つい昔の呼び方が出ちまった……あんたの身を案じて、自分で裏を歩き回っていたようだった。だが、相手も勘づいたんだろう。親父さんの周りにも、妙な車がつくようになった」
老人はそこで言葉を切り、膝の上の刺し網を愛おしむように撫でた。土間の奥で、乾いた風が吹き抜ける。
「……そして、あの事故の三日前だ。夜中に一人でここへやってきて、これを置いていった」
清次は立ち上がり、板の間の奥へ向かった。
壁に打ち付けられた太い梁(はり)の隙間に手を差し入れ、埃をかぶった重みのある包みを引っ張り出す。
土間に戻ってきた清次の手には、分厚い油紙で幾重にも厳重に巻かれ、麻紐で縛られた筒があった。
「『清次さん、これを預かってくれ』とだけ言った。顔色は青白かったが、声は妙に落ち着いていたよ。警察にも会社にも絶対に渡すな、と念を押された。……そして、すぐにあんなことになっちまった」
「……父の事故のあと、なぜ僕に届けてくれなかったんです」
乾いた問いが、僕の喉から零れた。責めるような調子ではなかったが、二十五年の空白の重みが言葉に乗った。
清次は油紙の埃を掌で静かに払いながら、首を横に振った。
「通夜の晩、俺も末席から焼香させてもらったよ。祭壇の前で頭を下げているあんたの後ろ姿を見た。……あの時、あんたは親父さんの死を、ただの不運な交通事故だと思っていただろう。そのあんたに、この中身を突きつけてみろ。『親父さんは事故じゃない、消されたんだ』と知ったらどうなる。記事を止められ、会社とも揉めていたあんたが、まともでいられるはずがねえ。その足で相手の懐に飛び込んで、親父さんと同じ場所へ消されるのが目に見えてた」
清次の声は低かったが、四半世紀の歳月を耐え抜いてきた男特有の、揺るぎない確信が込められていた。
「案の定、そのあと警察はろくに調べもせず、あっさりと前方不注意で処理しちまった。相手は警察の上まで手が回る怪物だったのさ。……あんたが海岸通りあたりで店を継いだと聞いてな。このまま過去に触れず、無事に生きていってくれるなら、俺がこのまま墓場まで持っていくのが親父さんのためだと思ってたよ。下手に俺が動いて、親父さんが命を賭けて守ろうとした『街の均衡』を、これ以上壊したくなかった」
――街の均衡。
その言葉が清次の口から零れ落ちた瞬間、胸の奥で、張り詰めていた何かが静かに軋んだ。
父の手帳。記事原稿の書き込み。相沢が語った二十五年前の夜。そして幼い頃の教え。すべてが同じ言葉を指し示していた。
「親父さんも、たった一人で相手に立ち向かってたわけじゃねえよ。名乗り出ることもできず、ただ黙って親父さんに手を貸した奴らが、この街のあちこちにいたはずだ。……俺もその一人ってわけだ」

油紙の中から現れたのは、真鍮製の頑丈な防水筒だった。船員が航海日誌や重要書類を水没から守るために使う、重みのある古い道具だ。ネジ式の蓋を回すと、真鍮の擦れ合う鈍い金属音が響き、中から経年でわずかに飴色に変色した一通の封書が姿を現した。

表には、見覚えのある几帳面な万年筆の文字で、僕の苗字だけが記されていた。
清次はその封書を、僕の手元へ静かに差し出した。
「受け取りな。今のあんたの目を見りゃ……親父さんが命を賭けて守り抜いた理由が、よくわかる」
差し出された封筒を、両手で受け取った。
二十五年の歳月を経ても、真鍮の筒に守られていた紙は湿気を吸っておらず、乾いた手触りだけが指先に伝わってくる。糊付けされた端を指先で裂き、中から厚手の罫紙を引き出した。父の事務所で使われていた用紙に、万年筆の鋭い筆圧で、事実関係だけが淡々と書き連ねられていた。日付は、事故の四日前のものだった。

【覚書:本牧再開発利権および記事差し止めに関する記録】

一、昭和五十年八月、東京の政界筋および港湾利権勢力による工作資金の流れを確認。利権側の脅迫に抗しきれなくなった内部関係者より相談を受け、当方にて中枢の裏口座記録(裏帳簿)および脅迫・買収工作の実態を示す録音テープを保全・確保。
二、東都新聞横浜支局の担当記者が本件の取材を進めていたが、把握している範囲は市議レベルにとどまる。この段階での記事化は、利権側に「末端の切り捨て」による隠蔽の隙を与え、同時に記者の生命を危険に晒すことが明白であった。
三、記者の安全確保および事態の泥沼化を防ぐため、東都新聞編集局長と直接接触。「街の均衡」を理由に記事の掲載を差し止めさせた。
四、現在、当方の身辺に利権側による監視および事務所への侵入形跡あり。現段階で証拠を公表することは極めて危険であり、情報提供者および関係各位の安全を脅かす。情勢を見極め、しかるべき機が熟すまで物証を分散保全する。
五、万一の事態に備え、清次氏の安全を考慮し本記録のみを寄託。一次物証(帳簿・テープ一式)は一時的に外部へ隠匿する。
【一次物証の隠匿場所】
子安運河・旧貯木場跡。大黒屋桟橋より北東約80メートル、水没杭(三番杭)基部の鋼板内側。

土間に、運河の水底から吹き上げる冷たい風が通った。
紙を見つめる僕の指先が、かすかに白く強張っていた。父は、僕の知らないところで一人、あの怪物と対峙していたのだ。
昨夜、相沢の言葉から抱いた拭いがたい疑惑が、父自身の克明な筆跡によって、冷酷な確定事項へと変わる。
父は、事故で死んだのではなかった。
利権側の手によって、口を封じられ、闇に葬られたのだ。
手の中の真鍮筒が、軋むほどに冷たく感じられた。僕は奥歯を噛み締め、深く息を吐き出した。
二十五年前、あの暗闇の中で父を死に追いやった連中。事故として片付け、今も何食わぬ顔でこの街の利権を啜り続けている影。
僕は書類をゆっくりと二つ折りにし、胸の内ポケットへと仕舞い込んだ。
取り乱すことも、声を荒らげることもなかった。ただ、視界の輪郭が刃物のように研ぎ澄まされていくのを、自分の中で冷ややかに感じていた。
立ち上がり、丸椅子を押し戻す。土間に置かれたままの、あの赤いウッドプラグを手に取り、静かに清次の手元へ置いた。
「……清次さん。一人で二十五年も、重い荷物を背負わせてしまった」
喉の奥から絞り出した声は低く、自分でも驚くほど冷たく澄んでいた。
「……僕が、始末をつけます」
清次は新しいハイライトを咥え、マッチを擦った。立ち上る紫煙の向こうから、僕の顔をじっと見つめ、低く頷いた。
「引き潮は、あと一時間ほどで一番深くなる。……行ってきな。親父さんと、あの時動いた連中の残したものを、あんたの手で引き上げてやれ」
と言って、ゴム長靴を手渡した。
「ああ」
僕は短く応え、大黒屋の引き戸を開けた。
外に出ると、子安の運河はさらに潮が引き、黒々とした泥の干潟が大きく広がっていた。冷たい海風が頬を打つ。僕は一度も振り返らず、旧貯木場の杭が突き立つ運河の奥へと、泥を踏みしめて歩き出した。