第8話:『野毛の止まり木、ブラスと硝子目』

野毛の都橋商店街は、大岡川の緩やかなカーブに沿って弓なりに張り付くように建っている。夕暮れ時、対岸の川面にネオンの灯りが赤や青に滲み始める頃、僕は1750GTVを近くのコインパーキングに滑り込ませた。
指定された擦りガラスの引き戸に手をかけ、横に引く。カウンターとボックス席2つだけの細長い店内には、低く流れるジャズの調べと、煙草の紫煙が静かに漂っていた。
奥のスツールに、その男はいた。白髪交じりの短髪に、着古したツイードのジャケット。丸めた夕刊をカウンターの端に置き、ウイスキーのロックグラスを傾けている。
相沢亮平。二十五年前と変わらない、無駄な肉のない痩躯と、獲物をじっと待つ猟犬のような眼差し。
僕は無言のまま、あいつの隣のスツールを引いた。
相沢は視線だけをこちらに向け、驚く風もなく、グラスの縁を指先でなぞった。
「……五分遅刻だ」
「海岸通りの信号が赤ばかりでね」
形式ばった挨拶も、四半世紀の空白を埋める前置きも要らなかった。僕がジャケットの内ポケットから真鍮製の塊を取り出し、カウンターの木肌を滑らせて相沢の前へ置くと、硬質な金属音が静かに響いた。
使い込まれて角の丸くなった、初期のブラス製ヴィンテージ・ジッポー。表面には、米海軍の艦船バッジが見事な手彫りで刻まれている。
相沢の瞳が鋭く光った。グラスを置き、無骨な指先でライターを拾い上げる。親指で蓋を跳ね上げると、澄んだ音が狭い店内に響いた。底面の刻印を確かめ、ヒンジの噛み合わせを確かめる。

「……三十年代初頭のブラスか。しかもこの手彫り、横須賀の腕利きが彫ったやつだな。どこで掘り出してきた」
「新港埠頭の古いトランクの底だ。ジッポー狂いのお前なら、この価値がわかると思ってね」
「……いい手土産だ。ありがたく貰っておく」
相沢は珍しく相好を崩し、ジッポーをジャケットの内ポケットに収めると、白髪頭のマスターに向かって短く顎をしゃくった。
「マスター、こいつには炭酸水にライムを落としてやってくれ。外にうるさいイタ車を転がしてきてる」
「かしこまりました」
蝶ネクタイを締めた初老のマスターが、薄張りのタンブラーに氷を滑り込ませながら、値踏みするように僕を見た。
「相沢さんから伺ってますよ。海岸通り裏で古物商をやってる腕利きだってね。……もしよかったら、一杯奢るついでに、ちょっと見ていただきたいものがあるんですが……構いませんか?」
「ええ、炭酸水の礼くらいはしますよ」

僕が答えると、マスターはバックバーの奥、棚の引き出しから新聞紙に包まれた小さな塊を取り出し、カウンターの上に慎重に広げた。
現れたのは、手のひらに収まるほどの小振りな一輪挿しだった。胴の周りには、まるで生きているかのような蟹と水草が、驚くほど緻密な彫刻のように立体的に浮き彫りにされている。
「昔、毎晩のように若い衆を連れて派手に飲みに来てくれた社長がいましてね」
マスターはグラスを拭く手を止め、遠い目をしながら語り始めた。
「本町通で、昔から欧米相手に生糸や陶磁器を扱っていた老舗の輸出商の三代目です。ですが、バブルの煽りで無理な事業転換に失敗して。会社が倒産して夜逃げする最後の晩、青い顔をしてここへ寄ったんです。『ツケを払えなくて本当にすまない。身ぐるみ剥がされたが、先祖から受け継いだこれだけは手元に残っていた。取っておいてくれ』と置いて消えちまったんです」
マスターは自嘲気味に息を吐いた。
「どうせ二束三文のガラクタだろうと思って、長年棚の奥に突っ込んであったんですがね。……あの社長も、結局は私を踏み倒して逃げたのかと思うと、どうにも胸の奥が苦しくて」
僕は一輪挿しを取り上げ、指先で高浮彫の細部と、高台の裏をなぞった。裸電球の明かりに透かすように釉薬の発色を確かめ、高台の内側に捺された小さな印銘を覗き込む。
四方枠の中に、確かに刻印されていた――『眞葛窯香山造』。
「……マスター。これはガラクタどころか、とんでもないお宝ですよ」
僕は一輪挿しを丁寧に新聞紙の上に戻し、静かにマスターを見据えた。
「明治初期、京都から横浜の南太田に移り住んで窯を開いた初代・宮川香山の眞葛焼です。この立体的な細工は香山独自の『高浮彫』という至技で、欧米の万博で世界中を熱狂させました。横浜大空襲で窯が壊滅したため、現存するものは極めて稀少です」
マスターの目が丸くなった。
「この細工と土の肌を見る限り、本町通の先々代が横浜港での輸出や万博への出品を手助けした返礼として、香山窯から直接贈られた特注品です。……当時のツケを全額清算しても、まだ十分にお釣りがくるほどの逸品ですよ」
「そ……そんな高価なものを……」
「その社長さんは、あなたを騙して逃げたんじゃない。すべてを失った最後の夜に、先祖から受け継いだ唯一の誇りと、持てる限りの誠意をこのカウンターに置いていったんです」
マスターは言葉を失い、震える手で一輪挿しを抱え込むように見つめた。やがて、深く息を吸い込み、目頭を指先でぬぐった。
「そうか……あの人は、先祖の誇りを置いていってくれたんですね……」
四半世紀にわたってバーの片隅に澱んでいた苦い記憶が、音を立てて解けていくようだった。マスターは息を整えると、バックバーのグラスの脇に転がっていた、別の小さな古道具を手に取り、少し照れくさそうにカウンターへ差し出した。
「お客さん、こんなもので鑑定料の代わりになるか分かりませんが……道具好きなら、受け取っていただけませんか」
差し出されたのは、手のひらサイズの古い木製のルアーだった。使い込まれて塗装が剥げ、木肌が露出しているが、左右には小さな硝子目(グラスアイ)が鈍い光を放っている。
「その社長の先代が、横浜から陶器や絹を輸出した帰りの船便で、アメリカから仕入れて持ち帰った荷の中にあったものらしい。『マスター、あんた釣り好きだったよな。家業の古い荷に紛れ込んでいたアメリカの思い出の品だが、あんたに持っていてほしい』と前に置いていったんです。私も昔はよく海に出てたんですが、今じゃすっかりご無沙汰でしてね。棚の埃にするくらいなら、道具好きのお客さんに持っていていただきたい」
僕はルアーを手に取った。1920年代以前の、オールド・ヘドン。ずっしりとしたウッドの重みと、歴戦の擦り傷。横浜港の貿易の歴史が染み込んだその手触りに触れた瞬間、僕の脳裏に、不意にある記憶が蘇った。
――そういえば、父も生前は釣りが好きで、休みの日にたまに竿を出していたはずだ。
僕はルアーを指先で包み込み、マスターに向かって小さく笑みを返した。
「ええ、鑑定料としては十分すぎるほどです。大切に預かりますよ」
ポケットにルアーを収め、僕はタンブラーに手を伸ばした。
ライムの浮かぶ炭酸水を一口含む。喉を通る鋭い刺激が、頭の芯を冷やす。
「二十五年前のことだ。……僕が書いた本牧再開発のスクープ記事が差し止められた事情を、何か聞いていないか?」
相沢の視線が、わずかに細められた。あいつは胸ポケットから使い慣れた自分のジッポーを取り出し、カチリと火を点けて煙草をくわえた。青白い煙が、二人の間に静かに漂う。
「今さら蒸し返すのか」
「……うむ。最近、身の回りがちょっと妙にざわついていてな」
相沢は深く煙を吸い込み、天井を見上げた。氷がグラスの底で小さく音を立てる。しばらくの沈黙のあと、あいつは低い声で淡々と語り始めた。
「……お前が辞表を叩きつけて社を出て行った、三日後の夜だ。俺はここで、当時の局長とサシで飲んだよ。お前が飛ばされた理由を、どうしても納得できなくてな」
相沢は煙草を灰皿の縁に置き、指先でグラスを弄んだ。
「局長は、お前の記事を止めたことを後悔していなかった。だが、お前が辞めたことには酷く沈んでいたよ」
「……どういうことだ」
「記事を差し止めたのは、上層部からの圧力じゃなかった。局長の元に来て、記事の差し止めを求めてきた人物がいたらしい。局長曰く、極めて信頼できる筋からの忠告だったそうだ」
相沢はグラスの縁を見つめながら、当時の局長の言葉を手繰り寄せるように続けた。
「その男は局長にこう言ったそうだ。『いま出ている浅い証拠で記事を出せば、相手はトカゲの尻尾切りで逃げ、本丸を取り逃がす。何より、若い記者が単身で突っ込めば危険すぎる。今動けば、街の均衡を壊すことになる』とな」
相沢はウイスキーの氷を揺らした。
「局長はその進言に筋が通っていると判断し、自分の責任で印刷を止めた。……『街の均衡』なんて、ジャーナリストらしくない妙な言い回しだったから、今でもよく覚えてるよ。局長は、裏付けを固めた上で改めてお前に真意を説明するつもりだったんだ」
「なら……あの左遷人事はどういうことだ」
「記事が差し止められて、その数日後に親父さんの事故があって……お前が忌引き明けに出社した、まさにその日だった」
相沢は苦い息を吐いた。
「局長のあずかり知らぬところで、役員会からお前への左遷命令が一方的に下りてきたんだよ。記事の差し止めと、あの左遷人事はまったくリンクしていなかった。……局長も上層部から理由は知らされていなかったが、俺の見立てじゃ、危険を察した利権側の連中が、お前を横浜から遠ざけようと経営陣の首根っこを押さえたんだろう。局長がお前に事情を説明する間もなく、お前は辞表を置いて消えちまった」
沈黙がカウンターを支配した。僕の中で、四半世紀にわたって凍りついていた時間が、静かに音を立てて溶けていく。
僕は炭酸水のグラスを見つめたまま、低く呟いた。
「……その、局長に会いに行った男だがね」
「ん?」
「……僕の父だ」
相沢の手がぴたりと止まった。咥えていた煙草を指先で外し、見開いた目で僕を凝視する。
「……親父さんだと?」
「最近、父の遺品である古い手帳を読み返したんだ。記事が差し止められた前夜、当時の局長と会った記録が確かに残されていた。……僕は今まで、父が利権側に寝返って僕の記事を潰したのだとばかり思い込んでいた」
相沢は煙草の煙をゆっくりと吐き出し、深く息を吸い込んだ。
「そうか……。親父さんは、お前を守りたかったんだな。そして、本当にその闇を暴くための時を稼ごうとしていた」
相沢はウイスキーのグラスを見つめたまま、苦い記憶を手繰り寄せるように眉根を寄せた。
「……記事が止められ、親父さんが亡くなり、お前が飛ばされた。この三つがほんの十日足らずの間に起きたんだ。実を言うと、同期の親父さんのことだから気になってな。事故の詳細を知りたくて、サツ回りの担当や所轄にあたってみたんだよ」
相沢の声が、一段と低くなった。
「だが、事故処理があまりに手際良すぎた。ブレーキ痕がどうとか、見通しの悪い交差点だったとかで、ろくに検証の続報も出ずに一気に幕を引かれた。……当時はただの胸騒ぎだと思って自分を納得させたが、今の話を聞いちまうとな」
背筋に、冷たいものが走る。父の死は、単なる不運の事故ではなかったのかもしれない。息子を守るため、そして裏で何かのために動いていた父は、あの時すでに何者かに狙われていたのではないか――。
相沢はグラスを煽り、氷を小さく鳴らした。
「……俺の畑は知っての通り、政治部のような華やかな利権追及じゃない。野毛や波止場の裏方たちの愚痴を拾い集める泥臭い遊軍だ。だが、港の現場の筋なら、当時の港湾の空気や、警察上層部の不自然な動きくらいは拾えるかもしれない。……二十五年前のあの周辺、俺なりに現場の足で少し掘り返してみるよ」
「……相沢。巻き込むつもりはないんだ」
「馬鹿言え」
相沢は自嘲気味に笑い、ジッポーの角でカウンターを軽く叩いた。
「俺もお前に辞められてから、四半世紀ずっと喉の奥に小骨が刺さったままだったんだ。……お前が親父さんの残したものを追うなら、俺も俺のやり方で動く。それだけのことだ」
僕は薄張りのグラスを置き、スツールから立ち上がった。
「……相沢。今夜の炭酸水は、ずいぶん高くついたな」
「ツケにしといてやるよ。……あのうるさい排気音を野毛の裏通りに響かせないでくれよな」
擦りガラスの引き戸を開け、外へ出る。大岡川から吹き上げる夜風が、火照った頬を撫でた。
コインパーキングに戻り、1750GTVのキーを捻る。乾いたセルモーターの音に続いて、ツインカムが低く唸りを上げた。海岸通り裏の事務所へ戻る道すがら、頭の中を駆け巡っていたのは、父の生前の姿だった。
事務所のドアを開け、明かりをつける。僕はポケットから出したオールド・ヘドンのルアーを、デスクのライトの下にコトリと置いた。傷だらけの木肌、鈍い光を宿す硝子目。
本棚の奥から、父の革製の手帳を取り出す。ページをめくり、二十五年前のあの月へ視線を走らせる。
――局長面会の直前の二ヶ月間。手帳には、幾つもの不自然なメモが残されていた。
『子安・出船五時』 『子安・運河 大黒屋』 『子安 潮回り確認』
そういえば、あの事件の前、数ヶ月ほどの父の行動は妙だった。たまに海へ行く程度だった釣りに、急に道具箱を新調し、毎週のように通い詰めるようになったのだ。休みのたびに早朝から子安へ出かけていたが、クーラーボックスから魚を出して見せてくれたことなど、ただの一度もなかった。
当時は「不器用な親父の気まぐれな趣味」くらいにしか思っていなかった。だが、なぜ子安だったのか。なぜ、魚も釣らずに、毎週のように北の運河街へ通い詰めていたのか――。
デスクの上のルアーをそっと指先でなぞる。父は釣りを口実に、あそこで誰かと会っていたのではないか。
「……子安か」
夜の静寂が満ちる事務所で、僕は翌朝、運河の舟宿を訪ねる決意を固めていた。