第7話:『新港埠頭第四号、封印のトランク』

真鍮タグの裏取りには、まる三日を要した。
『横浜税関 保税倉庫・新港埠頭 第四号』。かつて東洋一の設備を誇った第四号保税倉庫は、十数年前に解体され、今は港湾関係者の駐車場とアスファルトの更地に姿を変えている。
だが、税関のOB名簿を当たり、港湾の古老たちに探りを入れるうちに、ひとつの名前が浮かび上がってきた。坂口宗助。戦後から昭和四十年代にかけて、第四号倉庫の現場管理主任としてすべての荷役と通関手続きを取り仕切っていた男だ。退官した今も新港橋梁の袂で、沖仲仕や船乗り相手に古い船具の修繕を引き受けているという。
調査で足を動かしながらも、胸の奥には冷たい澱が沈んだままだった。
父の遺品である手帳に記されていた、二十五年前の「編集局長との面会記録」。スクープ記事を握りつぶし、僕を新聞社から放り出した黒幕は、本当に父だったのか。その重い疑念を頭の隅へ押し殺すように、僕は目の前の仕事に意識を集中させていた。
夏の終わりの午前十時。僕は1750GTVのアクセルを緩め、赤レンガ倉庫の裏手、運河沿いの船溜まりに車を滑り込ませた。潮の引いた水路には木造の伝馬船や小型タグボートが身を寄せ合い、潮風とともに重油と古いコールタールの匂いが漂っている。
トタン屋根の細長い作業所から、規則正しい金槌の音が響いていた。開け放たれた引き戸から中を覗くと、薄暗い土間にロープの束や真鍮製の滑車、錆びた錨が積み上げられている。奥の作業台で、厚手の革前掛けを締めた白髪の老人が、一人黙々と古い船舶用コンパスの真鍮枠を叩いていた。
「坂口宗助さんですね」
声をかけると、金槌の音が止まった。老人はゆっくりと顔を上げた。深く刻まれた額の皺の奥から、海風に晒され続けた男特有の鋭い眼差しが僕を捉える。
「……何の用だ。朝っぱらから、冷やかしの客が来る場所じゃない」
「仕事の話です。藤堂貿易の冴子さんから、これを預かってきました」
僕が作業台の端に真鍮タグを静かに置くと、坂口の視線が吸い寄せられた。金属片を見つめたまま、老人の無骨な指先がぴくりと動く。彼は磨き布を置き、傷だらけの手でタグを取り上げると、親指の腹で『第四号』の文字を、そして裏面に打たれた『特・零九』という手打ちの刻印を確かめるようになぞった。
「……藤堂のところのお嬢さんか。まだ、この引換札を持っていたのか」
「先代の机の奥に遺されていたそうです。第四号倉庫はもう跡形もありませんが、このタグが何を意味するのか、あなたならご存知だと思って伺いました」
坂口は深く息を吐き出し、作業台の脇にある丸椅子を顎で指した。
「……座りな。藤堂さんも逝っちまったし、俺ももう先が長くねえ。いつか誰かが引き取りに来るのを待っていたんだ。いい潮時かもしれん」
藤堂さんも逝っちまった――その一言が、耳の奥で小さく引っかかった。坂口の言う藤堂とは、冴子の父親のことだ。分かっているのに、一瞬だけ、別の男の背中が脳裏をよぎった。古い革の匂いと、店を閉める間際の静かな靴音。僕は短く息を吸い、丸椅子に腰を下ろすことでその感覚をやり過ごした。

坂口は土間の隅、積まれた木箱の裏から埃を被った牛革のトランクを引きずり出してきた。角を補強する真鍮金具には緑青が吹き、革の表面には幾筋もの深い擦り傷が走っている。
「昭和三十年代から四十年代にかけてだ」
坂口は煙草に火をつけ、紫煙の向こうに視線を漂わせた。
「当時、港が急速に近代化していく中で、どうしても法律や正規の帳簿には収まりきらない“物”や“事情”が湧き出してきた。密航者の手荷物、引き揚げの混乱で宙に浮いた荷、表沙汰にすれば街が荒れる揉め事の品……。そういう社会の澱みたいなものを、波風立てずに一時的に隔離しておく場所が第四号倉庫の一角にあった」
「その中立地帯を、あなたと藤堂さんが管理していたわけですね」
「ああ。褒められた仕事じゃねえし、法を盾に取れば違反だろう。だが、誰かが泥を被って収めてやらなきゃ、当時の港は立ち行かなかったのさ。藤堂さんが外で事情を汲んでこの札を渡し、俺が倉庫の奥で同じ番号を打った荷を静かに眠らせる」坂口は自嘲気味に煙を吐き出した。「その頃、ある密航の揉め事に巻き込まれて海で命を落とした男がいた。引き取り手のないまま、第四号の闇に取り残されたのがこのトランクだ」
「中を改めさせてもらっても?」
僕が尋ねると、坂口は「鍵はあの男と一緒に、本牧の海の底だ」と低く呟き、作業台から金槌とタガネを手に取った。彼はトランクの錆びついた南京錠にタガネを当て、迷いなく金槌を振り下ろした。
甲高い金属音が静まり返った作業所に響き、錠前が砕け落ちる。坂口は二つの留め金を跳ね上げ、革の蓋をゆっくりと持ち上げた。
四半世紀の封印が解かれた瞬間、樟脳の刺激臭と古い革、そして微かに染み付いた重油の匂いが、土間の冷気の中へ立ち上った。
埃を被った内張りの中に収まっていたのは、一人の男が人生のすべてを賭けようとした、生々しい痕跡だった。
まず目に飛び込んできたのは、黄ばんだサンフランシスコ航路の英文海図だ。その分厚い紙に厳重に包まれていたのは、ずしりと重い三つの小さな金塊だった。表面の正規刻印はヤスリで削り取られ、鈍い黄金の地肌が剥き出しになっている。表の銀行では扱えない、逃亡のための裏の資金だ。
その下に、革表紙の手帳と、一枚の白黒写真が重なっていた。写真に写っているのは、モンペ姿の若い母親と、小さな二人の子供。手帳の最初の頁には、不器用なペン字で、二度と届くことのなかった短い言葉が遺されていた。
『向こうで足場ができたら、必ず呼び寄せる』
「……密航者か」
僕の呟きに、坂口は短くなった煙草を灰皿に押し付け、重い溜息を吐いた。
「事情を抱えて、新しい名前で海を渡ろうとしていた男だ。藤堂さんが逃亡の手筈を整え、船が出る夜までこのトランクを第四号で預かる約束だった」
坂口はそこで言葉を区切り、無骨な指先で手帳の表紙を撫でた。
「だが、約束の時間にあの男は現れなかった。……数日後、本牧の波止場に土左衛門になって浮かんだそうだ。どこで誰の恨みを買ったのか、それとも最初から嵌められていたのかは分からねえ。結局、引き取り手を失ったこの箱だけが、闇に取り残されたってわけさ」
男の野心と絶望、そして残された家族への想いが、この小さな箱の中にそのまま凍りついていたのだ。
「倉庫が解体される時、処分できずにここへ引き取った。……ネコババする気にもなれず、警察に突き出せば昔の複雑な事情まで掘り返される。だが俺もいつまでも抱えちゃいられない。……あんた、こいつを引き受けてくれないか?」
老人の濁りのない瞳が、すがるように僕を見つめた。

「わかりました。手帳を手がかりに関係者を探し、写真は然るべき遺族の元へ返します。金塊は藤堂貿易の古い清算金として、表のルートで適正に換金しましょう。諸経費を引いた残りは、長年の保管料としてあなたにもきちんとお支払いしますよ」
僕が淡々と言うと、坂口は虚を突かれたように目を見張り、やがて深く、深く頭を下げた。その無骨な両肩から、四半世紀にわたって張り付いていた重荷が、音を立てて滑り落ちていくようだった。
「……すまんな。よろしく頼む」
「任せてください。荷物は責任を持って片付けます」
僕はトランクを抱えて立ち上がった。坂口は作業台の脇で、憑き物が落ちたような穏やかな顔をして僕を見送った。
車に戻り、重たいトランクを1750GTVのリヤシートへ慎重に滑り込ませる。フロントガラスにこびりつく潮風のベタつきを感じながら、新港埠頭の船溜まりを後にした。

海岸通り裏の事務所に戻ると、僕はデスクの上に新聞紙を広げ、トランクを据え置いた。
埃を払い、蓋を開けて中身を一つずつ取り出していく。布に包まれた三つの無刻印の金塊。昭和三十年代の白黒の家族写真。端の擦り切れた黒革の手帳。一つひとつが、戦後の混乱期にこの港で生きた誰かの、切切な生の痕跡だった。

トランクの内装を確かめていたとき、底板と革張りの隙間に、硬い金属の感触があった。指先を滑り込ませて引きずり出したのは、使い込まれて角の丸くなった一個の真鍮製オイルライターだ
った。
デスクライトの下で布を使って表面の汚れを拭い、引き出しからルーペを取り出して底面の刻印を覗き込む。
昭和三十年代初頭に製造された、初期のブラス製ヴィンテージ・ジッポーだ。ケースの表面には、米海軍の艦船バッジが見事な手彫りで刻まれている。
「……なかなかの掘り出し物だな」
古物商としての僕の目が、その確かな収集的価値を告げていた。と同時に、僕の脳裏に、二十五年前の懐かしい男の顔が鮮烈に浮かんできた。
相沢亮平。
東都新聞の社会部で、僕のすぐ隣のデスクに座っていた同期の記者だ。大特種を狙って突っ走る僕を横目に、相沢は夜の野毛や波止場に泥臭く通い詰め、港の裏方や船員たちの声をじっくりと拾い集める男だった。そしてあいつは、安給料を削っては世界中の古いジッポーを買い集める、筋金入りのコレクターでもあった。
僕が突然の左遷と父の死に打ちのめされ、辞表を叩きつけたあの日。あいつだけが黙って僕の肩に手を置き、何も言わずに見送ってくれたのだった。
あれから四半世紀。相沢は今も現場に残り、遊軍のエースとしてこの街の深層を見つめ続けているらしい。
手の中の真鍮を見つめる。珍しいヴィンテージを手に入れたから、昔のよしみで届けに行く――。そう自分に言い聞かせてみても、胸のざわめきは収まらなかった。
あいつなら、あの日の裏側を知っているかもしれない。父が何をしていたのか、真相の欠片を持っているかもしれない。触れてみたい衝動と、すべてが壊れてしまうことへの怯え。掌の金属片は、まるで冷えきった氷のように重かった。
だが――相沢を探しに行く前に、僕には果たさなければならない仕事があった。
受話器を取り、シルクセンターの藤堂貿易へダイヤルを回した。呼び出し音が二度鳴り、聞き覚えのある凛とした声が受話器の向こうから響いた。

シルクセンターのすぐ隣、産業貿易センタービル2階にある『カフェ ド ラペ』。大きな窓から山下公園の緑と港の光が差し込む席で、冴子はアイスティーのグラスを指先で静かに包んでいた。
僕は、新港埠頭の船溜まりで坂口に会ったこと、そして第四号倉庫に残されていたトランクの顛末をかいつまんで話した。
「……父は、そんな荷物をずっと預かっていたのですね」
「ええ。昭和の港が抱えていた複雑な事情を、お父上は誰にも言わずに引き受け、坂口さんと二人で静かに守り抜いていた。法や理屈だけでは割り切れない港の義理を、最後まで通された立派な方でしたよ」
僕が言うと、冴子は胸の奥につかえていたものが溶け落ちたように、小さく息を吐いて微笑んだ。
「トランクの中には、古い地金が遺されていました。坂口さんへの長年の保管料と手続きの諸経費を差し引いても、いくばくかの金になります。あなたが今進めている事業の足しに充てるといい」
「ありがとうございます。父もきっと、喜んでくれると思います」
冴子は背筋を伸ばし、真摯な瞳で僕を見つめた。
「それで……あなたへの調査料はおいくらお支払いすればいいのかしら?」
僕はカップを持ち上げ、芳醇な香りの珈琲を一口含んだ。
「そうですね……こうして午後のひとときに、貴女と美味しい珈琲を飲む時間で、十分すぎるほど頂いていますよ」
冴子は一瞬だけ瞳を見開き、すぐにその揺れを隠すように小さくうなずいた。頬にかすかな温度が差し、指先がグラスの縁を静かに辿る。
その飾りのないはにかみに触れた瞬間、胸の奥に澱んでいた重苦しい霧が、ふっと薄れていくのを感じた。その沈黙の余白を受け止めながら、僕はカップをソーサーに戻した。
「また何かあれば、いつでもどうぞ。港の記憶を片付けるのが、僕の生業ですから」

店を出て、大桟橋通りへ向かって歩き出す冴子の背中を見送った。潮風に揺れる彼女の黒髪が、並木道の木漏れ日の中へと溶けていく。
ジャケットの内ポケットに手を入れると、ヴィンテージ・ジッポーの角が指先に触れた。先ほどまでの冷たさは消え、布地越しに微かな温もりを帯びている。
不思議と、足取りは軽くなっていた。恐れることは何もない。ただ旧友に会いに行き、美味い酒を飲めばいいのだ。
夕暮れが近づき、海岸通りの石畳に長い影が伸び始めている。僕は1750GTVのドアを開け、野毛へと車を走らせた。