入梅前の強い日差しが、大桟橋通りのアスファルトに白い照り返しを作っていた。山下公園の生垣を抜けてくる風には、ぬるい潮の匂いと、初夏特有の乾いた草の香りが混ざり合っている。
僕は胸ポケットに収めた、四つ折りの古い紙片の感触を確かめながら歩いた。本牧の『BLUE MOON』が店じまいをしてから、ひと月ほどが過ぎていた。あの日見つけた、昭和34年の日付が入った店舗賃貸契約書の控え。そこに記されていた『藤堂貿易』という名が、ずっと引っかかっていた。
開港広場の交差点を渡り、僕は昭和モダン建築の重厚な佇まいを残す『シルクセンター』の正面玄関をくぐった。
一歩足を踏み入れると、外の熱気が嘘のように引き、ひんやりとした空調の冷気と、古いコンクリート特有の湿り気が鼻腔をくすぐる。かつて世界中へ日本の生糸を送り出し、横浜の繁栄を象徴したこのビルも、時代の移り変わりとともに往年の華やかさを失い、M1階から地下へと続く店舗街には独特の陰影が沈殿していた。
薄暗い通路を奥へと進む。真鍮のプレートに彫られた『藤堂貿易』の文字を見つけ、僕は開け放たれた木枠のガラス扉の前で足を止めた。
店内には、反物を包む油紙と古い木材の匂いが漂っていた。客の姿はない。だが、ショーケースのガラスも床のタイルも、埃ひとつなく磨き込まれている。
カウンターの脇に置かれた段ボール箱の前に、ひとりの女性が屈み込んでいた。
白の綿シャツの袖をまくり、無駄のない仕草で古い伝票や端切れを仕分けている。髪を後ろで無造作に束ねた横顔は、40歳前後といったところだろうか。凛とした涼やかな目元と、引き締まった口元が印象的な、知的な美しさを持つ人だった。
「いらっしゃいませ」
僕の靴音に気づき、彼女は腰を上げて振り返った。その張り詰めたような、警戒を解かない真っ直ぐな視線を受け止めた瞬間、僕は胸の奥で微かな戸惑いを覚えた。普段の商売相手に向ける乾いた目線が、ほんの一瞬、揺らいだのが自分でも分かった。
「……すみません、散らかっていて。いま、動かない在庫の整理をしていたところなんです」
彼女は整った眉をかすかに寄せ、自嘲気味に口元を緩めた。
「大掃除かい?」
僕が声をかけると、彼女は段ボールの中に視線を落とした。
「ええ。売れ残りのガラクタばかりで、うんざりしていたところで。……何かお探しですか?」
「いや、買い物をしに来たわけじゃない」
僕は胸ポケットから、あの黄ばんだ契約書の控えを取り出し、カウンターの上に置いた。
「本牧の古いジャズバーを片付けていたら、この書類を見かけてね。『藤堂貿易』の名があった。同業のよしみで、ちょっと顔を出してみただけさ」
彼女の視線が、紙面の日付と署名に落ちた。瞳の奥に、微かな驚きの色が走る。
「……昭和34年。本牧の、レイモンドさんの店ですね」
「知っているのかい」
「ええ。父からよく聞かされていました。……父が一番、信頼していた仲間だったと」
彼女は小さく息を吐き、どこか遠い目をした。だが、その張り詰めた空気の奥に、ひとりで店を背負い続ける者の孤独と、迷いが濃く滲んでいるのを僕は見逃さなかった。
ふと、カウンターの端に置かれた革のトレイに目が留まった。クリップや領収書の束に混ざって、無造作に転がされている白い粒。不揃いで歪な、バロックパールだ。形はいびつだが、表面のテリの奥に、幾重にも重なった厚い巻きの光沢が沈んでいる。昭和初期の手作業による養殖真珠特有の、深く静かな輝きだった。
視線を上げると、壁の薄暗い一角に、値札もつけられずに掛けられた小さな額が目に入った。絹地に描かれた、花鳥図。西洋画の遠近法を取り入れた独特の構図だが、筆の運びにどこか不完全な迷いと、同時に必死に引かれた線の強さがある。
さらに、彼女が足元に広げていた段ボールの中を盗み見る。放り出された古い型紙や端切れの中にも、手捺染の確かな技術を感じさせるものが散見された。
「……埃っぽい場所で話し込むのも無粋だな」
僕は革トレイの真珠から視線を外し、彼女に向き直った。
「隣のラペで、冷たいものでもどうです。……少し気になるものがある」
◇
シルクセンターの自動ドアを抜けると、開港広場の木立を揺らす風がシャツの襟をすり抜けていった。かつて英一番館と呼ばれた英国商社の跡地を進むと、古風な外階段が現れる。

階段の上には『カフェ ド ラペ』の看板。
ガラス扉を押し開けると、冷房の効いた涼やかな空気とともに、深く焙煎された珈琲の苦い香りが鼻腔を突いた。山下公園の緑を窓に切り取った店内は思いのほか静かで、かすかな音量のジャズ・ピアノトリオが、昭和の香りをまとった横浜を思い出させてくれた。
奥の落ち着いたテーブル席に向かい合って腰を下ろした。
彼女は運ばれてきたアイスコーヒーのグラスに手を添え、結露した水滴を細い指先でそっと拭った。
「藤堂冴子です」
名刺を差し出すでもなく、彼女は静かに名乗った。
「数年前に父が急に亡くなって……意に反して店を継いだものの、ご覧の通りの有様です。生糸も工芸品も、需要は減る一方。時代の波に取り残された店を、意地だけで開けているようなものよ」
弱音を吐くまいとするプライドと、先行きへの見えない焦燥。その間で揺れる冴子の横顔を、僕は黙って見つめていた。
「あの段ボールの中の型紙や端切れ……それに、店の壁に掛けてあった絹絵と、トレイの真珠。あれは?」
僕が尋ねると、冴子は少し自嘲気味に口元を歪めた。
「売り物にもならないガラクタですよ。絵はどこかの素人が描いたような不出来なものですし、真珠も形が歪で宝飾品としては屑同然。父の代から動かないまま埃を被っていたから、処分しようと思って仕分けていたんです」
「処分するには惜しい」
僕はアイスコーヒーを一口含み、グラスを置いた。
「そっちの箱に入っていた型紙や端切れも、放り出すには惜しい筋の良さだ。……それに、あの絵の絹地と顔料、真珠の照りには少し引っかかるものがある。半日、僕に預からせてもらえないだろうか。買取屋としての好奇心だ」
僕は内ポケットから名刺入れを取り出し、一枚のカードを差し出した。
『海岸通り裏・古物商務所』の文字の下に、刷り込まれた小さなスローガン――『街の記憶、買い取ります』。
普段は依頼人に機械的に手渡しているだけの紙片が、彼女の理知的な視線に晒されると思うと、なぜか微かに気恥ずかしい。僕は平静を装いながら、指先で名刺をテーブルの真ん中へ滑らせた。
冴子は名刺を手に取り、その文面をじっと見つめた。眉をわずかに寄せ、用心深く僕を値踏みするような光が瞳をかすめる。
「……信用していいのかしら。初対面の買取屋さんに、店の品を預けるなんて」
「疑うのは商売人として正しい」
僕が肩をすくめると、冴子はふっと口元を緩め、名刺をバッグに収めた。
「……でも、あのレイモンドさんが大切にしていた契約書を持ってきてくれた人だものね。信用するわ」
店に戻り、冴子は壁から小さな額を外し、革トレイのバロック真珠を油紙の小袋に包んで僕に手渡した。指先がわずかに触れ合った瞬間、彼女の手のひらが微かに冷えているのが伝わってきた。
◇
僕はアルファロメオ1750GTVに乗り込み、エンジンに火を入れた。軽やかな排気音を残しながら、日本大通りから本町通りを抜け、馬車道へと車を走らせる。
目指したのは、旧横浜正金銀行本店の重厚な石造りドームを冠する『神奈川県立歴史博物館』だ。
記者時代からの旧知である学芸員・佐久間を資料室に訪ね、預かってきた額と真珠の包みをデスクの上に広げた。佐久間は分厚い眼鏡の位置を直し、手袋をはめると、まずは絹絵にルーペを当てた。
「ほう……これは面白いな」
佐久間は額の裏蓋を慎重に外し、台紙と絹地の隙間を覗き込んだ。
「美術品としての市場価値を期待しているなら、当ては外れだ。だが、資料としては極めて貴重なものだよ。……大正の終わりから昭和初期、横浜にあった『授産所』の試作図案だ」
「授産所……生活困窮者や孤児の自立支援施設だな」
「ああ。開港後の横浜には職を求めて多くの人間が集まり、同時に行き場を失う女性や孤児たちも大勢生まれた。そうした人々に手に職をつけさせるため、横浜スカーフの初期の手捺染――型染めの技術を教え込んでいたんだ。この絵は、彼女たちが外国人バイヤー向けに必死に練習し、染め上げた試作品のひとつだろう」
佐久間は台紙の裏を指差した。変色した厚紙の隅に、鉛筆で殴り書きされた古い筆跡が残されていた。
『全数受取、工賃支払済。良き仕事なり 藤堂』
「藤堂貿易の先代だな」と佐久間が呟いた。「この真珠もそうだ。当時の規格から外れたバロックパールを、スカーフ留めやブローチの内職用として、先代が海女や養殖業者から買い支えて持ち込んでいたんだろう。……あの男はブローカーを気取っていたが、金にならないと分かっていて、困窮した連中の手仕事に正当な対価を払い続けていた『旦那衆』のひとりだったのさ」
佐久間の言葉を聞きながら、僕は胸の奥で静かに合点がいった。
先代が遺したのは、ただの売れ残りの在庫ではない。かつてこの横浜の港の底で、必死に生きようとした名もなき人々の手仕事と、それを支えた商人の誇りの痕跡だったのだ。
博物館を出た後、僕は公衆電話から山手の洋館に住むウィリアム――ウィルへ一本の電話を入れた。山手の古い教会が運営に関わっている、母子自立支援施設と手工芸作業所のことを尋ねるためだ。
『……ああ、あそこのシスターなら古い知り合いだよ』
受話器の向こうで、ウィルの掠れた声が響いた。
『藤堂の娘さんが訪ねていくかもしれないんだな? 了解したよ。シスターには、私から筋の通った話として伝えておこう』
「恩に着るよ、ウィル。私から依頼があったことは、内密に頼む。……今度コーヒーを飲みに寄るよ」
『いいってことさ。山手の風通しを良くするのは、いつだって私の役目だからね』
◇
夕暮れの光が、海岸通りのビル街を琥珀色に染め始めていた。
再びシルクセンターの『藤堂貿易』を訪れると、冴子は店の片隅で、まだ迷うように段ボールの山を見つめていた。
僕は額と真珠の小袋をカウンターに静かに戻し、佐久間から預かった調査記録のメモと、先代の裏書の拡大写真を添えた。
「先代が遺したのはガラクタじゃないよ。この街で誰かが生きるための仕事の種だった」
冴子は写真を手に取り、父の筆跡をなぞった。その瞳がみるみるうちに潤み、しかし彼女は唇を噛み締めて涙を堪えた。
「……父は、こんなことをしていたのね」
「どう使うかは、あんたが決めることだ。……山手の教会が関わっている作業所に、いまも手捺染の台が残っているそうだ。話を聞いてみる価値はあるかもしれない」
僕はそれだけ言うと、店を出た。
◇
二ヶ月後。
梅雨が明け、強い日差しが照りつける盛夏の午後、僕は再びシルクセンターの通路を歩いていた。
『藤堂貿易』の扉は開け放たれていた。店内には、以前のような停滞した空気は微塵もない。あの小さな絹絵は、店の一等地であるショーケースの背面に堂々と掛け直されていた。
カウンターの奥には、グレーの無骨なノートパソコンが開かれていた。冴子はデジタルカメラで撮影したスカーフのサンプル画像を画面に表示させ、真剣な眼差しでキーボードを叩いている。机の脇には、復刻した手捺染のハンカチや、バロック真珠をあしらったチャームの試作品が丁寧に並べられていた。
「いらっしゃい」
僕の足音に気づいた冴子は、顔を上げて破顔した。その表情には、初夏に見せた迷いは完全に消え去っていた。
「忙しそうだな」
「ええ。山手の作業所の方たちと試作を重ねて、ようやく形になってきたところよ。教会の神父様がなぜかとても親身になってくださってね。……いま、前職のスキルを活かして、全国に向けてこの手仕事を届けるためのホームページを作っている最中なんです」
冴子は画面を指差し、誇らしげに胸を張った。
「私、目利きはからきし半人前だから。……でも、良いものを必要としている人に届ける仕組みを作ることなら、私にもできる」
「上等な商売だ」
僕が頷くと、冴子は引き出しから、古い油紙に包まれた小さな塊を取り出し、カウンターの上に置いた。
「これ、父の机を整理していたら、奥の隙間から落ちてきたの」
包みを解くと、中から現れたのは使い込まれて角の取れた真鍮製の荷受タグだった。表面には『横浜税関 保税倉庫・新港埠頭 第四号』、裏面には手打ちの刻印で『特・零九』と打たれている。
「私には、父がこの街でどんな景色を見て、どんな人たちと生きてきたのか、まだ知らないことばかり。……あなたになら、この真鍮製のタグがどこに繋がっていたのか、託せる気がしたの」
冴子は真っ直ぐに僕の目を見つめた。
「……預かっておくよ」
僕はタグを手のひらに包み込み、上着のポケットに滑り込ませた。
「これからも、古いものの筋を見る時は……相談に乗ってくれる?」
「珈琲一杯で手を打つよ。……カフェ ド ラペのな」
冴子は小さく吹き出し、嬉しそうに頷いた。
◇
シルクセンターを出た僕は、1750GTVを大桟橋の突端へと走らせた。
夕暮れの横浜港。茜色の空と群青の海が溶け合う水平線から、心地よい潮風が吹き抜けてくる。
ポケットから真鍮のタグを取り出し、夕陽にかざしてみる。昭和の港を支えた保税倉庫の冷たい金属の手触り。
迷いを断ち切り、自分の足で前を向いたひとりの女の横顔を思い出しながら、僕は静かに煙草に火をつけた。
紫煙が風に千切れ、港の黄昏へと吸い込まれていく。
