第3話:『山手洋館のダイヤル、真鍮の鍵』

デスクライトの淡い光の下、僕は『燕京楼』の秀英から預かった木箱に向き合っていた。
艶やかな黒漆(くろうるし)に、比較的厚めの貝が埋め込まれた緻密な螺鈿(らでん)細工。大正から昭和初期にかけて中国で作られた機関盒(きかんこう)と呼ばれるからくり箱だ。箱そのものにも、骨董として相応の価値がある。
手指の先で螺鈿のフチを滑らせ、仕掛けの噛み合わせを探る。側面の板をわずかに引き上げ、逆さに傾けると、内部で重りとなる小さな真鍮のピンが落ちる乾いた音がした。
隠し蓋が滑り出て、底の凹みに収まっていたものが現れる。

古めかしい真鍮の鍵が一本。
そして、小さく折り畳まれた一枚の紙片。
広げると、そこには「24 – 08 – 61」という数字と、その下に『山手126番地 グラント』と記されていた。
三組の数字は明らかに欧米人の癖のある字体だったが、その下のメモ書きには見覚えがあった。父の筆跡だった。
二桁の数字は、ダイヤル式金庫の暗号だろう。
父はなぜこの鍵とメモを、親友である燕京楼の先代に託したのか。
僕は真鍮の鍵とメモをポケットに収めると、事務所の鍵を閉めた。
父が遺した答えを確かめるために。

本牧の工場から戻ったばかりのアルファロメオ1750GTVに乗り込み、水温計を気にしながら山手の坂を登った。
目的地である山手126番地には、居留地時代の面影を色濃く残す木造2階建ての古い洋館が佇んでいた。一階部分のアーチ窓には温かみのある灯りがともり、控えめな真鍮のプレートに『楓亭(かえでてい)』と刻まれている。現在は洋風のカフェとして営業しているようだった。

重い木枠のドアを押し開けて店内に入ると、静かなバロック音楽が流れていた。
店の奥、窓際のテーブルでパイプを燻らせていた小柄な老紳士が、こちらに気づいて穏やかな笑みを浮かべた。
「いらっしゃい。お好きな席へどうぞ。今夜は静かでいい夜だ」
当主のウィリアム・グラント――通称ウィルだった。幼少期からこの横浜で育ったという彼は、流暢な日本語で僕を迎え入れてくれた。
僕は向かいの席に腰を下ろすと、挨拶を早々に切り上げ、ポケットからあの真鍮の鍵と父のメモをテーブルの上に静かに置いた。
ウィルはパイプを口から外し、額に刻まれた皺を深くしながら、テーブルの上の品を凝視した。やがて、その青い瞳が大きく見開かれる。
「これは……君は、あの古物商の……」
「父の事業を引き継ぎました」
ウィルは深く息を吐き、遠い空を見つめるように瞳を泳がせた。パイプの紫煙が、ふっと中空に消えるのを待って、彼は静かに語り始めた。
「昭和10年代の半ばだった。戦争の足音が日に日に大きくなり、私の家族もイギリスへの帰国を決意した。家財道具を一式処分するために、評判の良かった君のお父さんに査定を頼んだんだ。彼は毎日のようにここへ通い、丁寧に家具を見てくれたよ」
ウィルはそこで言葉を切り、パイプに新しい葉を詰め直した。マッチを擦る乾いた音が、静かな店内に小さく響く。
「だが、帰国の準備が半ばほど進んだ頃、突如として暗雲が立ち込めた。政府と市の関係者がやってきてね。『この邸宅をしばらく使わせろ。断ればすべての家財を凍結し、収容所へ送る』と恫喝された。帰国は中止せざるを得なくなった」
ウィルは煙をひとつ、天井へ向けて吐いた。その眼差しは、もう僕を見ていなかった。半世紀以上前のこの部屋のどこかに焦点を結んでいるようだった。
「それ以来、週に何度か、黒塗りの車が夜陰に紛れてこの洋館に横づけされるようになった。集まっていたのは地元の有力政治家、港湾の幹部、そして裏社会のフィクサーたちだ」
「公の場では口にできない、港湾再開発を巡る不当な利権の分配と取り決め。多くの善良な事業者や港湾労働者が、犠牲になることは目に見えていたよ」
外を、遠い汽笛の音が一つ、通り過ぎていった。ウィルは、その音が消えるのを待つように、しばらく黙っていた。
「ある夜、政治家の若い秘書が、青ざめた顔で私のもとへやってきた。彼らの悪行に耐えかねたその青年は、『これを預かってほしい』と重い革袋を私に託したんだ」
パイプを持つ手が、微かに止まった。
「……彼は次の会合から、二度と姿を現さなかったよ」
自身にも危険が迫っていると感じたウィルは、中身を確かめる恐怖から、袋を開けぬまま書斎の隠し金庫へ放り込んだ。そして、万一の事態に備え、信頼できるあの買取屋——僕の父に、鍵とダイヤルナンバーを託したのだという。
「その後、戦火の中でグラント邸も使われなくなり、戦後はGHQのサロンとして接収され、私は厳しい監視のもとで生き延びるのに必死だった」
ウィルは小さく笑ったが、それは笑みというより、長い時間をやり過ごしてきた者だけが浮かべる、乾いた諦念のようだった。
「……いつしか、あの金庫のことも、過去の底へ沈んでしまっていたんだよ」
ウィルの話を聞きながら、僕は父の行動の裏にあった論理を静かに組み立てていた。
父は、ウィルの切迫した様子から事態の異常さを察知したのだろう。憲兵や警察のガサ入れから証拠を守るため、当時買い付けたばかりの中国製のからくり箱に鍵とメモを封印した。そして、万一自分に何かあっても安全な場所として、親友である燕京楼の先代に「何も言わずに」預けたのだ。
父は僕が買取屋となり、目利きとしてこの箱を開ける日が来るなどとは、想像すらしていなかっただろう。
「金庫はどこに?」
僕の問いに、ウィルは深く頷き、静かに立ち上がると「2階だ」と言って階段へ向かった。

2階の奥、現在は物置として使われている古い書斎。壁に掛けられた大きな油絵を外すと、そこには重厚な鉄の扉が埋め込まれていた。
僕はメモの記憶を頼りに、小さなダイヤルを慎重に回した。
「24……08……61」
最後に真鍮の鍵を鍵穴に差し込み、右へ捻る。ガチリと、半世紀以上の沈黙を破る重い金属音が部屋に響いた。
扉を手前に引くと、奥から冷たく乾いた空気が流れてきた。暗がりの中に置かれていたのは、埃をかぶった重厚な革袋だった。
袋の紐を解き、中身を机の上に滑らせる。
出てきたのは、黄ばんだ和紙にインクで記された戦前の裏取引の覚書や贈収賄を表す帳簿の写し、そして、厳重に布に包まれた小さな腕時計だった。1930年代初期の『ロレックス・エンパイヤ』――Ref.4130。当時の政治家が港湾フィクサーから受け取った、不当な贈収賄の決定的な証拠物件。
覚書の末尾に記載された政治家の署名と家名を目にした瞬間、25年前の古傷が、鉛のように重く疼いた。
見覚えのある家名だった。社会部記者として僕が追っていた「昭和の本牧再開発利権疑惑」——あの渦中で、幾度となく耳にした名だ。原稿を握り潰させたのはこの一族の意向だと、当時、社内の誰もがまことしやかに囁いていた。噂の域を出なかったその名前が、半世紀余り前の覚書の上で、今、僕自身の手によって裏付けられようとしている。
戦前の港湾利権と、25年前の昭和の本牧再開発利権。時代が変わり、街の容姿が変わろうとも、この横浜の港の底には同じ権力の血脈が、太く、黒々と根を張り続けている——僕はそう思わずにいられなかった。
手元に残された25年前の未解決の不条理と、父が守り抜いてきた過去の事実が、一本の線でつながった気がした。
「……あいつは、ずっとここにいたのか」
僕の呟きに、ウィルが静かに近づいてきた。彼は覚書と時計を一瞥すると、憑き物が落ちたかのような柔らかい溜息をついた。
ウィルは長い沈黙のあと、パイプの灰を静かに落とした。その仕草には、これまでの受け答えにあった張り詰めた気配が、もうなかった。
ウィルは椅子の背にゆっくりと体を預けた。長年、何かに耐えるように保たれていた背筋が、初めて緩むのを僕は見た。
「……君のおかげで、戦前からずっと腹の底に溜まっていた澱を、ようやく洗い流すことができたよ。物置にしていたこの書斎も、これからは風を入れて、新しいカフェの客席にでもしようかな」
ウィルは穏やかな眼差しで僕を見つめると、古い革袋と時計を僕の手元へ静かに押し戻した。
「君のお父さんには、結局何も返せないままだった。だから頼む、これを受け取ってほしい。半世紀以上もの間、止まっていた私の時間を動かしてくれた、腕利きの買取屋への……そうだな、破格の鑑定料としてね」
僕はしばらくその品々を見つめていたが、やがて短く頷き、静かに革袋を鞄に収めた。
「お預かりします。正しい価値のもとへ収めます」

楓亭を出ると、山手の街はしっとりと深い夕闇に包まれていた。外人墓地の縁を伝う潮風が、遠く横濱港の船の汽笛を運んでくる。
路上に佇む赤いアルファロメオ1750GTVに乗り込み、エンジンのセルを回した。ツインカムエンジンが乾いた鼓動を打つ。
助手席の鞄の中には、半世紀余り前の不都合な真実と、あの世襲議員一族の原点の証拠。
僕はクラッチを踏み込み、ギアを静かにローに入れた。闇に包まれた山手の坂を下りながら、僕は自分の胸の奥で、カチリと小さな鍵が回る音を聞いた気がした。