
夕暮れのワイメアの丘。僕は少し離れた場所から、それを見ていた。
彼女は長老の前に静かに立った。
長老は何も言わず、彼女の額にそっと息を吹きかけた。
それだけで、十分だった。
彼女は深く頭を下げ、海へ向かって歩き出した。
丘の下から響く潮騒に身を委ねながら、僕はかつてこの地の赤い泥の中で自分を見失っていた。
ワイメア、4年前。
僕は今、ワイメアの泥の中にいる。
赤く重い泥が、膝まで僕を飲み込んでいる。タロイモの根を引き抜くたびに、ぬかるみが音を立てて抵抗する。
あの時、この泥のように声を上げて、抵抗することは出来なかったのか?
会議室の冷えたパイプ椅子の上で、僕は膝に置いた手を見つめていた。周囲の怒号の中、同僚をかばうための言葉を喉まで出しかけながら、僕はついに口を開かなかった。
握りしめた爪が手のひらに白い痕を残す。
その部屋、会社、そして自分に背を向けて飛び出し、ここに来た。
濡れた絡みつく泥に触れるたび、あの日の傷痕がかすかに痛む気がした。
この農場は、ここに住む古い一族が代々営んできたものだった。
一族は、青いワイメアベイを見下ろす、乾いた赤い土の丘の上にある聖域プゥ・オ・マフカ・ヘイアウ(Pu’u O Mahuka Heiau)を守る「カフナ(神官)」の末裔だった。
僕は、タロイモ畑で働くことと引き換えに、粗末な家と食事を得た。
無給、ボランティア扱いの僕は、作業について指示されることもなく、他の従事者たちがやっている作業を見よう見まねでやるしかなかった。
一か月を過ぎる頃には、タロイモの収穫、除草、泥盛りなどの作業も、他の従事者より効率的に行うことができるようになった。
泥にあらがうのではなく、泥の動きに同調することで、体力の消耗を抑えることができることが分かった。
一日の作業が終わると、一族の長老(クプナ)の血縁(オハナ)でもある農場管理者が言った。
「明日から1時間早く出てこい。」
この農場にきて、初めて受けた指示だった。そして翌日から、わずかではあるが日当が支給されることになった。
時間があればプゥ・オ・マフカ・ヘイアウの保存を目的として行われる外来植物の駆除のボランティア活動などにも参加した。
一族の長老(クプナ)から親族(オハナ)へと語り継がれる、ハワイ古来の世界観や自然との関わり、そして神々についての口承。その「ハ・クプナ(長老の息吹)」に触れる機会も多かった。
それは日本人である僕から見て、時に異質に感じる部分もありながら、自然への畏怖や敬意を抱き、調和を図ろうとする精神性は、どこか身近に感じられるものだった。
そして冬になると遥か遠くアリューシャン海域からワイメアベイに押し寄せる大きな波も、信仰の対象となっていた。
大きな波が信仰の対象となるだけでなく、波乗り(He’e nalu)そのものも宗教的な意味を持っていた。
波に乗ることにも厳格なルールが存在し、良い波に乗ることができるのはアリイと呼ばれる王族だけだった。
波に乗る優先権も社会的地位により厳密に決められていた。
このルールを破ることは禁忌とされていた。
日本から来たばかりの僕は、ワイメアベイを守るローカルサーファーから見ればビジターであり、彼らと同じポイントで波に乗ることは許されなかった。
ローカルとのトラブルを避けるために、ローカルたちが海に入らないような、波のコンディションが悪い日(バッドデイ)にサーフィンをした。
風が入りうねりが不規則な日、波が小さく沖のリーフで波が割れない日、波が荒れてクローズアウトしているような日、つまり誰もが「今日は乗る価値がない」と吐き捨てる日。僕はそんな日にだけ、一番端のポイントから海に入る。
そして海に入る前に浜辺で必ず、小さくお辞儀をして、自然への感謝と畏敬の念をあらわした。
ローカルたちも避けるクローズアウトコンディションのワイメアに入るのは、常に危険と隣り合わせだった。
ワイプアウトして波のボトムに叩きつけられ、巨大な水の塊が体を打ち、ボードやフィンが危険な凶器と化す。波に飲み込まれ、海底のリーフや岩礁に叩きつけられ、生命の限界まで、上下もわからず海中で揉まれる、やっとの思いで海面から顔を出したところに次の波が押し寄せる。体力が削られ、意識が遠のく。
自然の大きな力の前では、できる事は限られており、僕は、長老の説いてくれたマナの力を信じるしかないと思っていた。マナの力を信じて、自然の脅威に身をゆだねることが、僕の最大の護身術だった。
―—
長老は、丘の上のヘイアウから海を見下ろしていた。
そこにはいつもあの日本人の姿があった。
海のルールを守りローカルとの諍いを避け、時に危険な海に入って行きながらも、自然や海への怖れと感謝を忘れない彼の様子を見ていた。
長い年月、この場所から数多のサーファーを見届けてきた長老には、彼らが板の上で見せる所作ひとつで、その魂が波をどう捉えているかが手に取るようにわかった。
多くの若者は、ワイメアを力でねじ伏せようとする。波を征服すべき敵と見なし、己の技術を誇示するためにその壁へと突っ込んでいく。だが、あの日本人は違った。
彼は、決して波の動きに逆らわない。まるで最初から自分もその水の一部であったかのように、波の懐へと滑らかに溶け込んでいくのだ。その姿は、かつて我々の先祖が海と交わしていた、失われつつある古い礼節を思い出させた。
ローカルたちも、彼らが忌避するようなクローズアウトコンディションのワイメアベイに臆することなく入っていき、危険な状況から幾度となく生還する彼を目撃し、一種の親しみを込めて、「Da crazy Japanese guy.」(あのクレイジーな日本人)と呼ぶようになっていった。
そんなある日、僕は大波が押し寄せるワイメアベイで波乗りをするローカルたちを眺めていた。
ローカルの一人が、突如現れた巨大なセットに翻弄され、危険な状態でワイプアウトした。波のボトムにたたきつけられた彼は海面から消え、折れたサーフボードだけが浮かんできた。押し寄せる巨大な波に何度も揉まれ、体力も消耗し、海面から顔を出すのがやっとの状態に見えた。彼が気づいたときには、すでにワイメアの手ごわいリップカレント(離岸流)の中にいた。強力なリップカレントは彼を沖へと引き戻してゆく。消耗しきった彼には、リップカレントに逆らって岸に戻る体力は残っていないようだった。
波乗りをしていたローカルたちも、荒れた海面で彼の行方を見失っていた。
僕は迷わずサーフボードを手にとった。普段から荒れたワイメアに入っている僕は、最適なタイミングをとらえ、沖に向かってパドルアウトした。
そして潮流を見極め、リップカレントを味方につけてローカルのもとに向かう。
パニック状態の彼をサーフボードの上に引き上げ、リップカレントを横切るようにボードを押した。
リップカレントから脱出し、押し寄せる波を利用しながら岸へとたどり着いた。
救出劇を砂浜から見ていたローカルたちが一斉に駆け寄ってくる。
「Da crazy Japanese guy wen do um!」
(あのクレイジーな日本人がやりやがった!)
「Shoots, you one of us now.」
(よし、もうお前は俺たちの仲間だ。)
「Respect, braddah. You wen save my boy.」
(尊敬するよ兄弟。仲間を助けてくれた。)
「Cheehoo! Solid, man.」
(チーフー! やるじゃん、強いな。)
「You stay ʻohana now.」
(もうお前は家族みたいな存在だ。)
彼らは口々に彼に言葉を掛けた。
翌日、僕は長老の家に呼ばれた。
僕が助けたローカルは、長老の血縁(オハナ)だったのだ。
長老は僕に家族を助けてくれたことに感謝の意を示し、同時に、僕の、海や波への接し方を丘の上から見守っていた事を話してくれた。
また、聖域での外来種の除去やタロイモの農作業など、すでに僕がクレーナ(責任)を体現していることにも敬意を表した。
そして、カフナ(神官)の血をひくものとして、長老は僕の額に息を吹きかけた。これは、長老が自分のマナ(神聖な力)を僕に分け与えてくれるハ(呼吸の儀式)という厳粛な神事だった。
その儀式の後、ハワイの神を表した4体のティキを僕に託したのだった。
「これはお前を守るためのものだが、お前だけの物ではない。いつか、お前がそうであったように、波の中で自分を見失い、あるいは光を求めている者に出会うだろう。その時、このマナをその者に繋ぐのが、お前の『 kuleana(クレーナ・責任)』だ」
と長老は言った。
長老がクレイジーな日本人にハの儀式を行ったという噂は、ワイメア中に知れ渡った。
―—
日本に台風の季節が巡ってきた。
千葉外房のサーフポイント近くにある馴染みの民宿に部屋を借り、2ヶ月ほど滞在する生活が今年も始まった。
到着した初日、海には早くも台風がもたらした5フィートほどの力強い波が打ち寄せていた。久しぶりの日本の潮の香りを確かめるようにセッションを終え、浜辺へ上がってきたときだ。
視線の先に、モノクロームの砂浜には不釣り合いなクラシカルな赤いクーペが停まっていた。
砂地の駐車場でタイヤが深く沈み込み、立ち往生していた。
運転席にいたのは、若い女性だった。
固く唇を噛みしめ、脱出しようと何度も操作を繰り返している。だが、力んだ脚で重いクラッチに翻弄され、過剰なトルクをリアに伝えては空転を重ねるばかりだった。
僕は車へ歩み寄り、手回し式の窓越しに声をかけた。
「2速に入れて」
彼女は一瞬、警戒を孕んだ厳しい眼差しを向けてきたが、無言で指示に従った。
彼女がクラッチを繋ぐタイミングを見計らい、車体の後ろから確かな力を加える。手応えとともに、赤い車体は滑らかにスタックを抜け出した。
「良かったね」
そう声をかけて立ち去ろうと運転席側に回ったが、そこに届いたのは感謝の言葉ではなかった。自分の運転技術の未熟さへの悔しさと、
「頼みもしないのに」
と言わんばかりの強い自尊心が、彼女の瞳の中に宿っていた。
その頑なな態度に、僕の口からつい皮肉が零れた。
「いい車だが、君にはまだまだ乗りこなせないようだな」
アルファロメオ1750GTV。パワーアシストなど存在しない時代の、重いステアリングと気まぐれなクラッチを持つ車だ。
彼女は一瞬、鋭く僕を睨み返したが、すぐに思いがけない言葉を口にした。
「……良かったら、お礼にランチでもごちそうさせてくれない?」
僕に『借り』を残したまま立ち去ることが、彼女の誇りとしてどうしても許せないのだ。そのまっすぐな意地を削がないよう、僕は言葉を選んだ。
「滞在先のアパートに食材は買い込んであるんだ」
「なら、私にランチを作らせて」
それが、僕と彼女の出会いだった。
僕の借りた古いアパートの部屋には、生活感を拒絶するかのように簡易ベッドと小さなテーブルがあるだけだった。
ただ一つ、ベッドの脇に並んだ4体の木彫りの彫像——ワイメアの長老から託されたティキだけが、異彩を放っていた。
彼女はキッチンに立つと、手際よくパスタランチを作り上げた。驚くほど出来のいいその味を噛みしめながら、食後のコーヒーを淹れる。
彼女の視線が、ベッド脇のティキに注がれていた。
「これを持っていると、海が味方してくれるという言い伝えがあるんだ」
背中越しにかけた僕の言葉に、彼女は不思議そうに耳を傾けていた。
同僚から
「お前にあの車が運転できるわけがない」
と揶揄された。それを見返すために、身体を鍛え上げてまで手に入れたというアルファロメオ。
曲がったことが嫌いで、損だと分かっていても筋を通す。彼女はそういう人だった。
それから2ヶ月。週末になるたび、彼女は赤いアルファロメオを走らせて僕のいる海へ通ってきた。
「サーフィンをやってみたら?」
と勧めても、彼女は
「今はまず、この車を完璧に乗りこなすことが私のテーマだから」
と笑って首を振る。
週末ごとに向かい合う時間は、波の音のように静かで、けれど着実に二人の距離を縮めていった。
彼女は相変わらずサーフィンをやろうとはしなかった。砂浜の駐車場に車を止め、助手席のドアに背を預けながら、沖で波を拾う僕の姿を追っている。
海から上がると、熱い紅茶や簡単な手料理が用意されていた。
彼女が握り飯を作ってきたとき、
「波乗りって、めちゃくちゃ腹が減るんだよなぁ」
と言って、あっという間に平らげた。
次回彼女の握り飯は、大きさは同じだったが、ずっしりと重くなっていた。
だが、彼女の持つ強烈な自尊心と頑なさは、日常のふとした隙間に鋭い影を落とした。
ある日曜の夕方、混み合うサーフポイントの駐車場でのことだ。
狭い離合スペースで、強引に進入してきた対向車と彼女の1750GTVが向き合う格好になった。相手の非は明らかだった。だが、彼女がほんの数十センチ車をバックさせれば、すべては一瞬で丸く収まる場面だった。
相手の男が苛立ちを露わにして車を降りてくると、彼女もまた車を降り、冷ややかな瞳で対峙した。
一歩も引かない姿勢。
相手の筋の通らない言い分を、彼女は一切の容赦なく論理で叩き潰していく。相手が威圧的に声を荒らげても、彼女は眉ひとつ動かさず、毅然と自分の正当性を主張し続けた。
だが、言葉を鋭い刃のように研ぎ澄まし、相手を追い詰めていく彼女は、ドアに背を預けたまま鍵を握る右手の指先を白く強張らせていた。声こそ毅然としていたが、その肩は息を詰めるように激しく上下している。
僕は助手席から、その光景を静かに見守っていた。
非が相手にあるのは間違いない。彼女の言う通りだ。
(彼女は正しい。けれど、ワイメアの大波に向かって『自分が正しい』と叫びながら突っ込んでいくようなものだ)
彼女は、大手IT企業で働いていた。仕事の話はほとんどしなかったが、車の中で電話が鳴ることが何度かあった。
「はい、いえ、それは……」
抑えた声で応対する彼女の横顔を、僕は助手席から見るともなく見ていた。
通話を終えると、彼女はハンドルに額を押し当てたまま、しばらく動かなくなる。
それから小さく息を吐き、何事もなかったようにいつもの笑顔でドアを開ける。
その横顔に、何か声をかけたくなる瞬間が幾度もあった。だが僕はその都度、言葉を飲み込んだ。
台風シーズンも終りに近づいた。僕は静かに荷物をまとめた。
アパートのガタつくテーブルの上に、4体のティキを並べる。そして、一枚のメモ用紙に短く言葉を添えた。
『僕はまた波を探す旅に出ることにする。アルファロメオを乗りこなせる君なら、波もきっと乗りこなせるはずだ。そんな君ともう一度出会いたい』
ハワイの長老が僕にマナを繋ぎ、クレーナ(責任)を託してくれたように、言葉ではなく、海とティキに彼女を委ねる。
彼女が自分の中にある本当の強さに気づき、しなやかに波と調和する日を信じて。僕はティキに彼女の守護を祈り、静かに部屋の鍵をかけた。
―—
日本を離れ、僕は再びワイメアの日常へと戻った。
朝はタロイモ畑の赤い泥に足を沈めて汗を流し、午後にはプゥ・オ・マフカ・ヘイアウの丘から青い海を見下ろす。
そして冬の訪れとともに押し寄せる巨大なうねりに向かい、身体を水の一部にするように波を潜る。
長老にティキを彼女へ託したことを報告した時、長老は深く頷き、静かにこう言った。
「お前は自分の『クレーナ(責任)』を果たした。あとは、その者が波の中で自分自身の声を聞き、マナを受け入れるかどうかだ」
千葉での2ヶ月間、彼女は僕の過去や素性を深く詮索しようとはしなかった。
会社での挫折を伏せていた僕にとって、それは救いでもあったが、何より自分とはまるで異なる世界に生きる人間への純粋な好奇心と、踏み込みすぎない彼女なりの自尊心ゆえの距離感だったのだと思う。
僕が彼女に語ったのは、過去のことではなく、世界中の海の話だけだった。
バリのウルワツに打ち寄せる深い波や、オーストラリアの先住民が削り出す精霊の木彫り、そしてワイメアの神聖なティキのこと。 だからこそ、僕がアパートを引き払い、ティキと手紙だけを残して消えたとき、彼女の手元に残された手掛かりは、あの4体の彫像と、僕が気まぐれに語った断片的な異国の海の話だけだったはずだ。
それから2年が経った、冬にしては穏やかな風の吹く午後のことだった。
僕は砂浜に腰を下ろし、ノースショアの海を眺めていた。普段は壁のような巨波が立ち塞がるワイメアも、その日はサイズが落ち、手前のビーチブレイクへと鳴りを潜めていた。
一人の女性サーファーが、サーフボードを小脇に抱えて波打ち際へ歩いていくのが見えた。
海に入る直前、彼女は足を止め、海に向かって深く、小さく、しかしはっきりとお辞儀をした。ハワイのローカルや欧米のサーファーには見られないその丁寧な所作に、僕は(日本人だろうか)と自然と目を留めた。
彼女は分厚いスープの塊に押し戻されそうになりながらも、諦めずに不器用にパドルを続け、沖へと出て行った。
遠目にも決して経験豊富とは言えないパドルだった。腕の回転は重く、決してスマートではない。だが、その愚直な肩の動きには、冷たい日本の海で何度も波に揉まれながら通い詰めてきた者だけが持つ、泥臭い粘り強さがあった。
やがてセットの波が入り、彼女が動き出す。
ワイメアのビーチブレイクは、サイズこそ小さくとも、掘れ上がりが早く鋭い。
彼女のテイクオフは決して手慣れたものではなかった。踏み出す足元は少し覚束なく、立ち上がった姿勢もどこか腰が高い。並のビジターなら、そこで焦って力任せにレールを押し込み、波に弾き飛ばされているところだ。
だが、彼女は違った。
立ち上がりのぎこちなさとは裏腹に、彼女は波の壁に向かって肩の力を抜こうと必死に身をかがめた。上手いわけでも、しなやかと言えるほど洗練されているわけでもない。それでも、切り立つ波に対して力で刃向かおうとせず、必死に波の傾斜へ身体を預けようとしていた。
それは、力任せに戦うのをやめ、必死に波の力へ従おうとする、どこか健気で不器用な姿だった。
僕は砂浜に立ったまま、そのぎこちないライディングから目を離せなくなっていた。
まだ上手くはない。けれど、力で波をねじ伏せるのではなく、必死に波の懐へ身を預けようとするその姿勢に、僕はなぜか胸の奥が騒ぐのを覚えていた。
その直後、水平線の彼方から、この時期のノースショア特有の気まぐれで巨大なセットが突如として押し寄せてきた。
今の彼女の拙い技量では到底太刀打ちできない巨大な水の壁。ピークから必死にパドルを合わせたものの、切り立った壁の途中で追いつけず、彼女の身体は宙へ叩きつけられた(パーリングした)。
二つに折れたサーフボードだけがスープに乗って打ち上げられ、水面に浮上した彼女は強烈なリップカレントに引きずり込まれ、何度も分厚いスープに飲み込まれて姿を消した。
「無謀なビジターが! 神聖なワイメアを汚す気か!」
“Haole tourist! You no belong in Waimea!”
さっきまで砂浜で場違いな日本人女性の入水を苦々しく眺め、罵声を浴びせていたローカルたちが、彼女がパニックを起こし危険な状態に陥ったのを見た瞬間、弾かれたように動き出した。
彼らは迷わずボードを手に海へ飛び込むと、熟練した無駄のないパドルで分厚い波を切り裂き、一斉に彼女の救助へと向かった。荒々しい言葉とは裏腹に、海での命の危機を見過ごさない彼らの動きは迅速で容赦がない。強烈なカレントから強引に彼女を引き揚げ、浜辺へと連れ戻すと、ローカルたちは彼女を砂浜に膝をつかせた。
「ここをどこだと思ってるんだ! お前のような技量で入っていい場所じゃない!」
“Eh! Dis Waimea, brah! You no can handle dis kine wave!”
「パドルもろくにできないくせに! 命を無駄にする気か!」
“You no even paddle good! You like make trouble fo’ die?”
口々に浴びせられる厳しい叱責。だが、そこには単なる排他主義だけではなく、軽率な挑戦で命を落としかねない者への、海を熟知する者ゆえの怒りと警告が込められていた。
濡れた砂の上に倒れ込み、肩を激しく上下させて下を向くその身体つき、そして濡れた髪の隙間から覗く横顔に、僕は息を呑んだ。
間違いない。彼女だ。
2年前、冷たい千葉の砂浜で、僕に刺すような警戒心を向けながらアルファロメオの車内にいた、あの彼女だった。
僕は静かに、彼女のもとへと歩み寄った。
僕が砂を踏む音に、ローカルの男が振り返った。
「この件、俺に預けてくれないか」
“Braddah… leave dis kuleana to me.”
ローカルたちは僕の顔を見て口をつぐんだ。
「Da crazy Japanese guy」
——この海に受け入れられた僕の存在を認め、彼らはそれ以上彼女を責めるのをやめ、静かに引き下がっていった。
僕の姿が視界に入った瞬間、彼女の肩の震えがぴたりと止まり、張り詰めていた緊張が一気に瓦解していくのが分かった。
「……遅いわよ」
泣きじゃくりながら胸を叩く彼女を、僕はただ強く抱きしめた。2年間、冷たい海で一人パドルを続け、硬く鍛え上げられた彼女の身体からは、微かに塩の香りと、変わらない情熱の熱量が伝わってきた。
彼女は僕の顔を見上げると、涙を拭い、浜の少し離れた場所に立つ人影へ向けて、静かに手を振った。自分が自力で掴み取ったこの瞬間を、誰にも邪魔されたくないというように。
それだけで通じ合ったのか、その人影は小さく頷くと、静かに踵を返して去っていった。
―—
夕暮れが迫るワイメアベイ。海を見下ろすテラスのテーブルで、琥珀色の光が二人のグラスを静かに満たしていた。
下では、冬の本格的な訪れを告げるワイメアの大波が、遠くのリーフで腹の底に響くような轟音を立てて砕けている。
「あの置き手紙とティキ、本当に頭にきたわ」
グラスの氷を指先で揺らしながら、彼女は苦笑混じりに切り出した。
「最初はね、あなたを見返してやるっていう一心だったの。アルファの助手席を倒してサーフボードを突っ込んで、毎週千葉や湘南に通ったわ。でも、波は車以上に意地悪で、力任せじゃ絶対に笑ってくれなかった。何度もパーリングして、砂を噛んで……」
彼女はふっと肩の力を抜き、椅子の背もたれに体重を預けた。2年前、重いハンドルを操作するために鍛えてきたはずのその肩に、今はもう力みがなかった。そこにあったのは、パドルを重ね、波と向き合い続けてきた者だけが纏う、しなやかな静けさだった。
「揉まれているうちに分かったの。力づくで世界と戦おうとしていたのは私の方で、あなたはあの海と同じように、私に力を抜くことを教えようとしてくれていたんだって。……悔しいけれど、いつの間にか意地じゃなくなっていた。あなたに会って、ちゃんと『乗りこなせるようになったよ』って伝えたくなったの」
彼女はふっと表情を緩め、遠くの水平線を見やった。
「でも、私ったらあなたの苗字すら知らなかったでしょ。手元にあるのはあのティキと、あなたが話してくれたバリやオーストラリアやハワイの海の話だけ。だから、横浜の古いビルにいる珍品扱いの鑑定士のところへ飛び込んだのよ。『このティキのルーツを教えて、彼が世界のどこにいるのか突き止めたい』ってね」
彼女は少し視線を落とし、それから静かに続けた。
「本当は、明日の便で帰るはずだったの。あなたを探す旅に付き合ってくれた人も、そのつもりで待っている」
そこまで話すと、彼女は少し悪戯っぽく笑い、僕をまっすぐ見つめた。
「明日、君のワイメア用のサーフボードを見に行こうか?」
僕がそう切り出すと、彼女は手にしていたグラスを止め、驚いたように僕の顔を直視した。それから、どこまでも澄んだ柔らかい微笑みを浮かべた。
「ありがとう」
短く返した。
それだけで、十分だった。
彼女の瞳には、2年前の外房の冷たい砂浜で出会ったときに見せていた、あの刺すような意地や警戒心はどこにもなかった。そこにあったのは、いくつもの波を自力で潜り抜け、自分自身の足でここに立っている者だけが宿すことのできる、どこまでも穏やかで深い感謝と信頼の眼差しだった。
彼女はもう、力任せに世界と戦う必要はない。そして僕もまた、過去の静寂に逃げ込む必要はないのだ。
ワイメアの赤い泥の中で自分を見失っていた4年前の記憶は、波の音とともに遠くへ押し流されていく。僕たちは二人で、目の前に広がる新たな波の懐へと、滑らかに溶け込んでいくのだった。



